軸の俳句

秋 尾  敏 評

<「碧耀集」という軸の雑詠欄の上位句を、秋尾主宰が評しています。>


23年11月

気泡のショパン花野を走り去る       飯島 好子


 つぎつぎと転がり出るショパンのピアノ曲の音を、気泡と感じ取ったのである。まずその感性がすばらしい。またそれを「気泡のショパン」と断定的な隠喩で言い切った勇気にも敬意を表したい。さらに「花野を走り去る」というイメージの広がりに力がある。この表現には読者を圧倒する力がある。花野は、此の世でもあり、彼の世でもあるような気がするから、この句からは、刹那の人生の喜びから喪失までを読み取ることもできる。ショパンその人のことも語っているのであろうし、作者自身の人生のことも言っているのであろう。ショパンがシャンパンという言葉に似ているという楽しさもある。深く、楽しく味わえる句である。

懐中時計秋澄む水のように抱く       山﨑 政江

 懐中時計というからには、おそらく父君の遺品であろう。「秋澄む水」は眼前の景であると同時に、父その人。そういう人物だったと作者は懐かしんでいるのである。さらにもう一歩抽象化して読めば、懐中時計は過ぎ去った時間のメタファーである。懐古する時間が澄み切っているということで、煩瑣な現実生活の中で、静謐な時間を愛おしんでいることが分かる。この句も、「懐中時計」の懐が懐古の懐だというおもしろさがある。「水澄む」だけで秋の季語であるが、「秋澄む水」という言い回しも悪くない。

蛇紋岩寝落ちて桐の実が太る       木之下みゆき

 蛇紋岩は変成岩である。もともとは堆積岩や火成岩だったものが、地下の深いところで、熱や圧力や化学反応で変化して作り出される。ようするに出来方が屈折しているのである。それだけに複雑な美しさを持ち、室内装飾に使われる。そんなことを知らなくても、「蛇紋岩」という言葉だけから、まがまがしい美しさを連想できるかもしれない。静かな蛇紋岩のそばに大きくなった桐の実があったというだけの句であるが、蛇紋岩はさまざまな経験を積み重ねてきた存在、桐の実はこれから大樹になろうとする存在、ととらえられれば、この句のおもしろさは理解できるだろう。

いわし雲私の何を知っている        岡田 治子

強烈な自我の表出である。一読して、思わず謝りそうになった。だが、作者は怒っているのではないのかもしれない。純粋に、私の経歴の何を知ってくれているのかと問いかけているのかもしれない。

人体に磨耗の歴史大根蒔く         稲垣 恵子

「身体」と言わなかったところを見ると、自分の体ではないのかもしれない。人類に普遍の真理を実感として述べた。そこがおもしろい。

小望月わたり廊下を甘えにゆく       荒木 洋子

「甘えにゆく」の意外性がすばらしい。男性がころりとやられてしまう恋の句である。

爽涼を打つは点滴待ち時間         堂下眞佐子

 中七で切れる。点滴が終わるのを待っている時間ということ。せっかくの爽涼なのに、という気持ちもあるが、何とかその時間を受け入れようとする作者の気持ちも見える。

颱風の死の静けさに似て湯船        表  ひろ

「颱風の死の静けさ」は逆説的に見えるが、しかし颱風には三度の静けさがある。嵐の前と、眼の中と、颱風一過と。湯船がそうした静けさにあるというのは、作者自身の内面が颱風だからである。「死の」が効いている。

23年10月

百日紅溺れるまでの舌を出す        堺  房男

 一見、百日紅の赤い花房を「舌」に見立てた句である。「溺れるまでの」は、花自身が、また作者が、その色に酔うという意味であろう。しかし作者は、その命の終わりまでを思っているようでもある。とすれば、「舌」は自分の命の象徴であるかもしれない。百日紅の紅い舌に溺れながら、自分もまたしたたかに生命の舌を出し続けている。「舌を出す」が生きることの象徴であるとしたら、それは何と俳味に溢れた置き換えであろうか。

登山帽翳し地図から消えてゆく       山﨑 政江

 この句もまた人生というものの寓喩である。人の最期とはこのようなものだと言っている。男の最期はこのようであれと言われているような気もする。

熱出せばカボチャの馬車がやってくる    渡辺 礼子

人を食った句である。ぜんたいこの「カボチャ」を季語とすることが可能なのであろうか。いや、きっと寝ている作者に南瓜のスープか何かが運ばれてきたのである。熱にうなされた作者は、そこにシンデレラの夢を見たのである。

大粒の愁思を首に巻いて風         市川 唯子

「大粒の秋思」が真珠のネックレスの比喩とは思えない。我慢して流されなかった涙なのではないか。いずれにせよ首にまとわりついているのは秋思。「風」は状況である。

永遠に軍靴の音や霧の中          香取 哲郎

なぜ「永遠」かと言えば、忘れられるものではないから。そして、現実の人間世界から消えそうもないものであるから。今日も世界の何処かで行軍が続いている。

脳天に致死量ほどの露の玉         吉田 季生

「致死量」という言葉がまとわりついて離れない。そういう時代を私たちは生きている。昔から「露の玉」は命の象徴だが、その命さえ致死量ほどだと作者はいうのだ。

晩夏かな医者に解らぬ耳の中        関谷ひろ子

文字どおり病んだ耳の原因を医者が分からなかったということだろうが、しかし医者に聞こえぬほどの囁きが診療室で交わされていたということでもあるだろう。「晩夏」がその診療室に深い影を作り出している。

秒針は戻せぬ命白芙蓉           小島 裕子

休むことなく流れていく時間。その時間に添って私たちの命も年を重ねていく。その切迫感を秒針に、その価値を白芙蓉に託して詠んでいる。

怒りも涼し曼荼羅というリンク       荒木 洋子

「曼荼羅」は悟りの宇宙。あり得べき至高の秩序。「リンク」はその宇宙で関連し合っている秩序の全体像だろうが、そこに自分自身も結び合っているとすれば「怒りも涼し」ということになる。

我が積みしケルンの安否雲の峰       藤田 富江

かつての登山で積んできたケルンは今もそのまま残っているだろうか、ということだが、「安否」には人の気配があっておもしろい。そのケルンを積んだときの願いを思い出しているようでもあり、またそうした若い時の心を今も自分が持ち続けているかと問いかける気持ちもあるように思う。

もっと気高く銀漢を待ちて丘        諸藤留美子

世俗に塗れて生きているからこそ、こうした願いが溢れ出てくる。理想は重要だ。理想を失ってはならない。
          

23年9月

節電の目薬汗の味がする          篠田 道子

 作者はすでに八十四歳となり、今は句会にも出ていないが、毎月の投句は欠かさず、しかもその作品が月並に堕することがない。一人で句作を続けながら、この水準を維持するという力量は並のものではない。詩吟の師範としての教養が基底を支えているのだろうが、俳句表現への情熱も並外れているのであろう。
 掲句、猛暑の部屋での点眼が口に回って、それが塩辛かったというのである。それだけのことを、これだけ面白く言ってみせるところに、この作者の本領がある。
 俳句は,自分だけ面白がっていてはだめだ。読んだ人を楽しませなければいけない。他人が面白いと思うところまで表現を高めようとするには、強い意志が要る。責任感と言っても良い。ある水準の表現ができあがるまで、あきらめたり、妥協したりしない根気が必要なのだ。この作者にはその根気がある。しかし根気があっても、やり方が分からなくては、他人も面白いと思う句にならない。どうしたらよいのか。
 まず、掲句には「節電」という社会状況へのまなざしがある。つぎに、その「節電」をぐだぐだと説明せず、「節電の目薬」という日常言語ではあり得ない大胆な省略表現によって飛躍の独自性を作り出している。そして、「汗の味」という自らの身体感覚による実感がある。社会状況へのまなざし、省略と飛躍、独自性、身体感覚、これらはいずれも現代俳句の重要な要件である。初心者は、この作者の五句を熟読し、どのように句が作られているかをよくよく考えてみるべきである。

鍬の柄に眼据えたる楸邨忌         香取 哲郎

 爛々と未来を見つめる眼光が見えてくる。鍬の柄には掌が置かれ、その上に顎があって、その上に眼光が輝いているのであろうが、それを「鍬の柄に眼据えたる」と省略した言い方にすることで、途方もない意志の強さが表現された。生活者であることによって文学者であろうとする作者の生き方が凝縮された名句である。

占いの小さな未来ソーダ水         吉田 季生

 たしかに占いによって示される世界は「小さな未来」である。冷たい飲料を飲みながら、小さな明日を心配する。まさに小市民の日常感覚の典型的表現というべきであろう。だが、そうした小市民性は、この句によってみごとに客観視され、そのことによって、その小市民性を超克する思想が準備されていくのである。

添文のあり八月の古い椅子         小林 俊子

 使い古された椅子が売りに出されているのだが、そこに一筆添えられていたというのである。「戦前のものです。祖父が大切にしていました」というような「添文」だったのだろうが、作者はそれが妙に気に掛かったのである。「八月」は終戦忌の月。昭和の歴史を振り返る月である。

のうぜん花地質時代を這いのぼる      市川 唯子

地質時代は有史以前の地球の歴史。野性的な凌霄花に、その時代を生き抜いてきた生命力を感じたのである。

物言わぬ蝉があまりに多すぎる       和田 三枝

今年は蝉の鳴き出すのがかなり遅かった。私の家の周りだけかと思ったら、どこもみなそうだという。京都に旅行したら、京都の人もそう言っていた。気候のせいで孵化が遅れているらしい。専門家が放射能は関係ないといっていたが、もっと詳しく調べてほしい気がする。もちろん作者はそのことと、人間社会の風潮とを重ねているのである。


23年8月

植物の勢いで吸うソーダ水        赤羽根めぐみ

 なるほど水を吸うという点においては、植物の方に一日の長がある。いや実は生命力そのものも、植物の方が強いのかも知れぬ。しかし作者も負けてはいない。この生命力、賛美すべし。

腕なのかはんざきなのか眠れない      山﨑 政江

腕が言うことを利かぬのである。自分を最も助けてくれるはずの腕が、今やお荷物状態。おまえは山椒魚なのかい?と言いたくなる気持ちはよく分かる。実は私も二月以降、五十肩で苦しみ続けている。

夏木立愛のくさりにつながれて       小島 裕子

愛という束縛はたしかにある。他人からの押しつけである場合もあるが、ほとんどは自分自身のこだわりなのである。それを捨てれば楽なのだろうが、しかしその束縛が生き甲斐という場合もある。「夏木立」が抽象的な思考を分かりやすく伝えてくる。米寿の作家からこういう作品が生まれることに驚嘆する。

生れた日の森の輪郭かぶと虫        市川 唯子

 その日の森の大きさや形が重要だと言っている。一期一会ということである。それはたしかに記憶されなければならない。甲虫は、自分の体でそれを記憶しているのである。甲虫が森の相似形で生まれてきたと、はっきり読んでしまってもよい。そう読むと、逆に黒々とした森全体が巨大な甲虫の形にも思えてきておもしろい。

つかの間を惑星に棲み更衣        木之下みゆき

長い長い輪廻の時間を言っているのである。巨大な宇宙の永劫の時間の中での私たちの営み。その小さなひとつひとつの行為に意味があるということを噛みしめたい。宇宙論や時間論という大きな視点と日常の営みとが、ひとつ視野に収まっているのがよい。

ヨット疾走雲の速さを許せない       栗山 和子

自分より大きなもの、優れたものへの反発心か。その思いがエネルギーになっているようである。

向日葵の不安な明日と言う方位       加倉井允子
「方位」はこの時代の隠れたキーワードであろう。そのことを発見しただけでも価値がある。「向日葵」も、昨今特別な意味を持つ植物になってしまった。

未央柳まつげの長き夜の顔         稲垣 恵子

蕊の長いことを言っているのであろうが、「夜の」が利いていて、そういう生活をしている女性を考えてしまう。


23年7月

薔薇ごしの時計別れを繰り返し       市川 唯子

待ち時間が近づいてくる。薔薇園の時計塔を何度も見直しながら人を待ち続ける。思えば幾たびも人と別れてきた。今日逢う人ともこれきりになるのだろうか。西洋古典画を解釈するように読めば、「薔薇ごしの時計」が愛とその変容を象徴しているということになる。

音のない民話に棲めり燕の子        鈴木 郁子

民話の世界に落とし込む句もけっこうあるが、「音のない」という形容が面白かった。はじめ子燕が鳴き止んだのかと思ったが、そうではないだろう。子燕は自分の声しか聞こえないという解釈も出そうだが、そんな理屈っぽい読みより、音のない世界に燕の子が育っているというファンタジーを楽しんだ方がずっと面白い。「棲めり」という断定も心地よいし、最後に「燕の子」が置かれているのもよい。深い句ではないが、俳句としての完成度が高い。

寝返りを打つ朝焼の樹の体臭        山﨑 政江

 うっすらとした目覚めの中で寝返りを打つと、開け放した窓から木々の匂いが漂ってくる。夢うつつの中、その香りが、かつて出会った人の体臭と重なる。「寝返る」という言葉には裏切りの意味もあるから、心変わりの気配もある。

ところてん正しき嘘を交わすべし      表  ひろ

 嘘にも一理なくてはならぬというのだろう。「ところてん」を食べながらの付き合いなら、その程度がふさわしかろうと納得。

思い出せなかった顔のよう牡丹       菊地 京子

人間は忘れるということはないのだそうで、思い出せないだけらしい。しかも、嫌いなことや不都合なことは、わざと思い出さないらしいから、作者は牡丹にも何かわだかまりがあるのであろう。

湯をくぐる蝶のパスタよ夏はじめ     赤羽根めぐみ

 「蝶のパスタ」は蝶の形をしたパスタで、イタリア語で「ファルファッレ」という。きれいな色が付けられているものも多い。沸騰した湯の中を泳ぎ続けるファルファッレのイメージが楽しい。

引き技という極意あり栗の花        倉岡 けい

 今回一番笑えた句だが、最後に「栗の花」が来るのが難しかった。まあ、生命力ということなのだろう。

日輪の伸びて五月の膝小僧         小林 俊子

伸びたのは膝小僧ではなく日輪からの光であろうが、そのエネルギーで身体もしゃきんと伸びたのである。

完走の杖癒さるる桐の花          岡田 治子

「完走の杖」というのは伴走者のことではないかと思う。障害を持つ人の杖となって走った人が、桐の花の下で休んでいる姿に共感しているのである。

いくつもの節目に立ちて今年竹       和田 三枝

今年竹だというのに、すでにいくつもの節を作っている。人間世界にも、すでにいくつもの節目があったはずなのである。

23年6月

黙祷の有形無形しゃぼん玉         小林 俊子

 「黙祷の有形無形」という発想にも感心したが、季語の斡旋に感嘆した。「有形無形」から「しゃぼん玉」への展開がすばらしい。しゃぼん玉という無邪気ではかない遊びの中にもある人間の純粋な心を考えた。

わなわなと睫毛濡らせり鳥の恋       山﨑 政江

 俳句の擬声語・擬態語は、通常の使い方では意味がない。唯一の使い方を工夫すること。それによって、そのときだけの感覚や感情を伝えようとすること。この句はそれができている。

三寒の大きな闇が立ち騒ぐ         鈴木 郁子

 「三寒四温」という冬の季語を「三寒」とか「四温」とかと略して使うのは良くない。ましてそれを春季に使うのは間違いである。けれど、それが北国のことであれば理由もあり、このように整った韻律で詠まれていると、思わず拾ってしまうのである。

必然と思う淋しさ花の雨          後藤 保子

 抽象的な詠みぶりである。「必然と思う寂しさ」は、あらゆる事態にあてはまる感覚であろうが、「花の雨」がそれを引き締めて手応えを与えている。今は震災という時代の文脈の中で読む人が多いだろうが、時代が変わればまた別の読み方をされる句である。

身辺の軋みに敏い白牡丹          岡田 治子

自分自身ばかりでなく、その周辺にも敏感になっているということ。そのことに、崩れやすい白牡丹を見て気づいたのである。

葱坊主故郷を離れ大人びる         野口 京子

季語の斡旋が単純明快で、分かりすぎる句であるが、そこにこの句の良さがある。まさに象徴ではなく比喩の句。

一瞬に木霊は沖へ春の雪          小島 裕子

「一瞬に」という上五がいささか直裁な説明かとは思うが、「木霊は沖へ」が印象深い。「春の雪」にも象徴性が感じられ、深さが出ている。

含羞を置きざりにして春の泥        吉田 季生

何の含羞なのかがよく分からない。春泥に取り残されて立ち尽くす人の含羞を詠んだのか、逆に含羞など無いと言っているのか。その両義性が状況の複雑さを感じさせているので採った。

曖昧な血脈におり羽抜け鶏         栗山 和子

「血脈」は「けつみゃく」と読めば肉親のつながりだが、「けちみゃく」と読めば師弟関係である。さらい隠喩だとすれば派閥のことともとれる。たしかに現代はそれらのすべてがあいまいな時代である。

花冷えの遡る波還暦に           菊名美津子

「遡る波」は眼前の具象とも読めるが、私は内面の感覚と読んだ。六十年の記憶が一気に押し寄せてきたのである。

流れ着くように昼来る花あんず       倉岡 けい

現実にはあり得ないことを「ように」で結んでいる。直喩はこのように使いたい。これを隠喩で「昼が流れ着く」と言ったのでは無理がある。直喩でしか言えないから直喩でいっている。状況に流されないように生き、しかし流されそうになっていることがよく伝わってくる。

鎮もれる街を行軍黒い蟻          福島由紀恵

蟻の行軍というのは、以前はときどき見た表現であるかもしれない。しかしずいぶん見ていない気がする。「黒い」が効いている。

朧からぬけ出してくる大漁旗        荒木 洋子
最後の「大漁旗」で意表を突かれた。また、そういう存在が今は必要な時だと感じた。


23年5月

猫の子へ戒厳令の星明り          市川 唯子

軍隊を持たない日本には,当然のことながら「戒厳令」は存在しない。戒厳令というのは、国家の非常時に三権(立法・司法・行政)の機能の一部、または全部を軍、及びその最高責任者に従属させ、民主主義の機能を一時的に停止させることである。だから、軍隊がなければ戒厳令の出しようもないし、その根拠となる法律も定めようがない。
 戒厳令どころか、日本には「非常事態宣言」を出す法的根拠もない。宮崎県の知事が出した「非常事態宣言」というのは、キャッチフレーズのようなもので、法的根拠は何もない。本来ならば、「非常事態宣言」が出されれば、民主主義は部分的に停止され、その緊急事態を、指導者の独断で乗り切ろうということになるのだろうが、法律で決まっていないのだから出したって何も変わらない。この国は、いざというときどう動くかが決まっていない国なのである。
 戦争を放棄するというのは立派な考えだ。これは貫いていった方がよい。だが、何かあった場合の段取りは考えておかなければならない。放棄しているのだから戦いはないはずだ、という理屈は、原発事故はないはずだ、という理屈と同じ建前論である。
 今、日本も大変だが、戒厳下の国もある。掲句は、今の日本の緊張感を、世界的視野で考える糸口を与えてくれる。戒厳令と子猫との対比は、制度と個人の問題を浮き彫りにしている。

進退の春泥ならばふくらはぎ        山﨑 政江

 何を言っているのかまったく分からないという人もいるだろう。たしかに語句の意味が文脈を解体させている。通常の日本語では、そこに来るはずのない単語が、文脈の枠組みに置かれているということである。しかし俳句は、このくらい読者を立ち止まらせてよい。立ち止まってしばらく考えれば、与えられた役職を辞めるか続けるかという瀬戸際であるからには、春泥がふくらはぎに跳ね上がるくらいは当然のこと、と読めてくる。この「ふくらはぎ」は、生命力の象徴であろう。衰えを感じながらも、その弾力にまだ自負を持っているのである。

千年を跨ぐ春光ずぶ濡れに         鈴木 郁子

大地震や津波をこのように詠んだ句を初めて見た。なるほど、こういう風にも表現できるのかと感心した。「千年」「跨ぐ」「春光」「ずぶ濡れ」という単語を組み合わせて、津波と分かる表現になるのだから、俳句は奥が深い。

蝶狂う眠り薬の得し夢に          香取 哲郎

夢の中で、蝶はなんの象徴であったのだろう。作者の心は乱れている。睡眠剤を服用したというのだから、尋常であるはずもない。「眠り薬の得し夢」というレトリックは、さすが哲郎俳句というべきだが、句全体の趣は、やはり通常の哲郎俳句とは違う。境地といえば境地であるが、一方で、作者の日常が平穏に戻るよう祈りたい。

エンジンの紐はちぎれて春の雲       上野かづ子

 耕耘機であろう。なかなか始動しないエンジンの紐を何度も引いていると、その紐がちぎれたのである。呆然として空を見ている様子がありありと見えてくる。失敗談でありながら、生活の様子がはずむように伝わってくるのがよい。「ちぎれて」から「春の雲」への展開が抜群である。

顔寄せて傷つきやすい箱苺         利根 美代

 ありのままを言った句だが、 「顔」ととらえたところで成功した。「顔」と擬人化したので、「傷つきやすい」が心の問題に重なってくるのである。

薄氷のひとつ一つに合言葉         山崎 文子

 それぞれ違う形をして切れ切れに浮かんでいる薄氷を見ての発想。「合言葉」に、心の通じ合いを求めている作者の気持ちが表れている。

囀りが込み上げてくる地震以後      木之下みゆき

「込み上げてくる」一語で句を成立させ、見事。このように、通常とはちょっと違った言い方こそが、心を伝える表現となる。

ストローの先は放課後しゃぼん玉     赤羽根めぐみ

 言い回しがよい。それだけなのだが、地震やら何やらで内容の濃い俳句が続くと、こういう軽い句が懐かしく響いてくるから不思議なものだ。


23年4月

 トラブルが生じる前に心配をしすぎる人は、ときに変人扱いをされる。神経症なのではないかと、病人扱いされることもある。文学的想像力というものも、ときにそういう扱いを受けるのであるが、しかしその想像力は、実は人間の英知を生む根源なのである。考え抜くこと。人間にそれ以上の武器はない。

寒い首工作船へ深入りす         木之下みゆき

社会性に立ち向かう自分自身を詠んでいる。多喜二の忌をきっかけに、文学と情況への問題意識が深まっているのである。五句が連作のように響き合い、独特の文学空間を形成している。

海市立ついつより泪もろくなり       表  ひろ

甘いと言えば甘い。俳句としては抒情が過ぎるだろう。しかしその心地よさというものもある。謎のような句を目指していた作者だが、伝達性が増してきている。俳句としてちょうど良いところに落ち着きつつある。

春光がふくらみ人が痩せている       西崎 久男

 自身の手術をほどよい客観性で詠みきった。作者が俳人として生きていることがよく分かる。病人が俳句を作ったのではない。俳人が手術を受けたのである。ご快癒を祈る。

朧夜の外階段はけものみち         山﨑 政江

巧みな句である。有季定型の骨格の上に新しさが乗り、十七音で完結した文学空間が作られている。態度としての社会性も読み取れる。

葉牡丹の渦が疲れて休刊日         上野かづ子

 「疲れて」から「休刊日」への展開が抜群の俳味を醸し出している。模索の一年を経て、またこの作家の良さが耀きだしている。

透明なははの懐春の雪           小林 俊子

深い愛を持ちながら、その愛に溺れぬ公正な賢母というものを想像する。「は」音の響きも美しい。

梅林の白い嗚咽が帯となる         後藤 保子

少し難しい句だが、梅林自体が泣いているのである。白く咲いた梅を泣いていると見たのは独自。しかもその悲しみは帯状に連なっているという。

干蒲団たたいてヘリコプター去りぬ     鈴木 郁子

バタバタというヘリコプターの音を、布団と結びつけたところが見事。

受験子のカスタネットを振り鳴らす     志賀 綾乃

受験子というと十八歳を思うが、どうもこの受験子は小学校を受けるらしい。いわゆるお受験である。

耕すは踊るにも似て鳶の笛         香取 哲郎

他人を見ているのではない。自分の筋肉の動きをそう感じているのである。「鳶の笛」が「踊る」に響いていて楽しい。季語は「耕す」で春の句。

戻り寒む何をするにも時計みる       和田 三枝

 実感としてよく分かる。不安というほどでもない何かが、心の底にあるのであろう。


23年3月

 今月は、たくさんの句を白耀抄に選ぶことができた。うれしいことである。発見のある句、説明しない句、省略の効いた句、飛躍のある句をどんどん送ってほしい。

凍みる夜の柩は贄の息づかい        山﨑 政江

 神への献上品のように棺がそこにあった。それは、静謐な息をしているようだった、というのである。思い切った比喩であるが、緊迫した空気が伝わってくる。感じたことは,この句のように率直に表現すべきである。感覚を疑ってはいけない。凱夫は「自分の句を怖れるな」と言っている。

凧揚げる翼のあったこと忘れ        吉田 季生

もともと人間には自由に羽ばたく翼があったというのである。そうであればこそ、人は大空にあこがれ、凧を揚げる。現実離れをした発想に見えるが、何か希望のようなものを抱かせてくれる句である。自分の本来の姿を取り戻せば、今からでも何かできるのではないか、そんな気持ちを持たせてくれる句である。

眼帯に死者の来ている十二月        香取 哲郎

病んで眼帯をしている目に、亡くなった人の面影が浮かぶ。現実が見えない目だからこそ、あの世の人の面影が離れないのである。歳晩に一年を振り返るときは、必ずその年に逝った人を数えてしまうものだ。

大寒の山を出て来て木の如し        高木きみ子

 「木の如し」はいろいろに読めそうだが、私は堂々たる男性がいたと読んだ。それも人生を山とともに歩んできた林業の男性。ついに男は、木になったのである。

日溜りへ傷を返しにゆく二月        表  ひろ

早春のわずかな温もりに心を癒して貰うということだが、復讐心も見え隠れして俳味がある。「傷を返しにゆく」は、なかなかに俳句的な言い回しである。

逡巡のバナナ黒ずみ日脚伸ぶ        飯島 好子

食べようかどうしようかと迷っているうちに、バナナは黒くなってしまったということである。しかし、「逡巡のバナナ黒ずみ」という表現には、そうした日常を遙かに超えたすごみがある。作者の所属した苞の会が長い歴史の幕を閉じた。そうしたことまで感じ取れる句になっている。

炎上の記憶それから梅ぐるい        菊地 京子

 人にはそれぞれ文学の原点というものがある。そこから、自分の内面が始まっていくという体験である。この作者にとっては炎上の記憶がその原点で、それは梅花と分かちがたく結びついているということである。作者は昔、日立で戦災に遭ったと聞いたことがある。

一粒の薬に迷う枯葉径           和田 三枝

「一粒」にリアリティがある。今、日本人のほとんどが薬に迷って生きている。この句は、日本という国のそうした側面をみごとに捕まえた一句である。

目つむれば炎ゆ寒椿別離来る        水谷 田鶴

 寒椿は眼前ではない。追憶の寒椿で、別離こそが眼前に突きつけられた現実である。本来は「炎ゆる」と連体形になるべきところだが、終止形として語意を強めている。


23年2月 

「切れ」のしっかりした句が増えてきて喜ばしい。切れが飛躍や余情を作り、予想もできぬ世界に連れて行ってくれる句が楽しいのである。ただ今月は、佳句が五句揃っている人が少なくて残念であった。いくら佳い句があっても、凡庸な句が一句混じっていると、その作者を信じようとする気持ちが失われてしまう。

冬ぬくし浄土へ辿る万歩計          香取 哲郎

 死をどう受け入れるか。それが人間にとって最後の課題である。「万歩計」は健康を維持するためのもので、それは間違いなくこの世への未練なのである。しかし作者は、それを浄土に続くものとしてとらえている。生き延びるために健康になろうというのではない。いわば良く死ぬために、良く生きようというのである。「万歩計」は、長い人生を歩き続けてきた作者そのものの象徴にもなっている。また、死後も歩き続けようという作者の死生観も感じ取れる。明快な句だが、深い人生観に裏打ちされており、「万歩計」という新しい素材に深い詩情を与えたという意味でも、価値ある一句である。

蒼然と銀河の亡ぶ登り窯           山﨑 政江

 夜の「登り窯」である。登り窯の火が耿耿と闇を照らし、その結果、背後の銀河が滅びていくのである。文脈から言えば「蒼然と」は、「銀河」が薄暗く古びているということ。しかし、「蒼然と」のイメージは強烈で、「登り窯」も古びているように感じ取らせる。叙景句でありながら、命とか存在とかまでを感じさせる句となっている。

ざわめきの戻る軍港山眠る          吉田 季生

 時事句なのであるが、それを写生でやったところに注目。状況と対比的な季語が、人間の営みを相対化しているのも見事である。

浮くものの行方は知らず去年今年       表  ひろ

 抽象的な季語を使い、人生観を徹底的に抽象で詠んでいる。それなのに景が見えてくるのがすごい。流れている水があり、そこに何かが浮かんで運ばれている。むろんそれは、人の世のメタファーである。

冬の月歌をわすれた煙突よ          市川 唯子

忘れるも何も、最初から煙突が歌を知っていたとは思えないのだが、そこが俳句。煙を出すことを禁じられた煙突を、作者は「歌を忘れた」と言ったのである。

落日の体温盗みとる冬木           岡田 治子

日没の太陽の温度を貰っているとも読めるが、それだと「体温」が少し無理かと思う。夕暮れ時、木に寄りかかっている作者の体温を冬木が奪っていくと読んだ。韻律が美しい。

桑枯れて尖る武甲が押し黙る         大平 充子

 叙景句であるが、何か言っている。「尖る」という写生と「押し黙る」という擬人法が、ドラマを作っている。この句も韻律が美しい。口語で五七五を守りながら美しい韻律を作るのはなかなか難しいことである。

風花の半分は姨捨の匂い           山崎 文子

 強烈なメッセージを発している句である。聞けば山のことだと逃げられそうだが、誰が読んでもこの「姥捨」は単なる山の名ではない。自分は「半分」のどちらであろうかと考えてしまう。
寒雀また来てベランダが熱い         栗山 和子

 以前より雀が人に馴れてきたようで、人との距離が縮まっているように思う。雀が来てくれたと、人間の方が喜んでいるのである。

妣の杖手頃になりぬ師走の灯         加倉井允子

以前は自分には華奢だと思っていた杖を、ちょうど良いと感じるようになる。師走の灯に、人生も暮れてゆく。
 
23年1月 

十二月の本社例会でも述べたが、俳句の新鮮さと格調の高さは、矛盾する概念ではない。新鮮さと格調を両立させようとしたのが河合凱夫の俳句である。一九九〇年代に、いわゆる平成の軽み調が時代の潮流となったときも、凱夫の句は、その骨格を乱さなかった。その精神を、私たちは受け継いでいかなければならない。
 新鮮さは、開かれた心身から生まれる。自分だけのとらえ方、自分だけの表現が浮かんでくるように、心を開かなければならない。心が自由にならなければ、独自性は生まれない。常識の枠や既成概念に縛られていてはだめなのである。
 一方、句の格調を保つためには、内容の深さと、整った句形が必要である。
 内容の深さは、よく練られた世界観と、鋭い感性によってもたらされる。俗っぽい人生観や、一時の感情に流された俳句に深さは現れない。また、深さと深刻さが別ものであることにも注意したい。俳句は深刻になってはいけない。深刻な事態を深い心でうけとめ、軽く言い放つ。それを俳味という。俳味を忘れたら、もはや俳人ではない。
 整った句形とは、五七五のことではない。五七五にぴったりおさまっていても俗っぽい句はある。字余りや破調でも、格調を感じさせる句はある。感性を研ぎ澄まし、自らの精神性を高めて、格調を聞き分ける心を練らなければならない。
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渾身の力で眠る冬の蝶           吉田 季生

 冬蝶が眠ることに力を尽くしているという発想に実感がある。それを「渾身の力」という言葉で表したことに新鮮さもある。常識の世界では「渾身の力」と「眠る」は結びつかない。それを強引に結びつけることで違和感を発生させ、そのことが深さを作りだしている。こうした表現方法を「異化表現」という。

人間の音がいっぱい破れ蓮         山崎 文子

 たとえば上野の不忍池のようなところで、街の騒音に囲まれて破れ蓮がひしめき合っている。その騒音を「人間の音」とまとめて言ったところが俳味である。蓮を疲れさせているのは、その人間の騒音なのかもしれない。しかし、反面でこの句は、人間の営みを肯定している響きもある。その両面を感じさせるところが、この句の深さである。

秋灯下未練を笑うシュレッダー       柴田 澄子

不要の紙を呑み込んでいくシュレッダーの音を笑い声と見立てたのである。しかもその笑いは、廃棄しなければよかったと未練がましく後悔する作者自身に向けられていく。秋灯下というからには、刻まれていくのは、懸命に書いた手紙であったろうか。それとも別れた人の愛読書だったかもしれない。

整然のわだち冬耕誤りなし         杉山真佐子

 畦が整然としているというのなら話は分かりやすいが、整然としているのは「わだち」。農道の轍から農夫の人となりを思い知ったのである。

綿虫の天へ零れる休診日          山﨑 政江

 訪ねていったら休診日。うつろとなった心で空を見上げると、たくさんの雪虫が宙空に浮かんでいた。それを「零れる」ととらえたのが独自性。

木洩れ日の一粒わらう冬はじめ       稲垣 恵子

光は波動か粒子かという議論はさておき、木洩れ日に「一粒」を見いだしたのが独自性。厳しい日常の中の、ほんの一瞬の幸福というものを感じさせる。

人淡く歩いておりぬ黄落期         岡田 治子

 「淡く」は、果てある者のはかなさであると同時に、理想でもあるのだろう。

上り框柿に重みを聞いている        荒木 洋子

 上五の「上り框」はただ場所を言っているのではない。ああ懐かしい上り框だという心の動きがある。

貧しさを我等に見せよ冬の鳥        海野 誠二

 ものに溢れて生きている人間が、冬鳥に、生きるということの原点を思い出させてくれと言っているのである。

冬になる一日まえの置手紙         安田 政子

 置き手紙を見たのが立冬の前日だったというだけで、人生の中での深い意味を持つようになる。


22年12月

遥拝(ようはい)の空が縮んでピラカンサ  山﨑 政江

 私より上の世代の人にとっては、「遥拝」と言えば宮城遥拝でしかありえないだろう。けれど「遥拝」を辞書で引いても、「はるかに遠い所から礼拝すること」としか書かれていない。今の若い人に「遥拝」が何であったかを理解してもらうことは簡単なことではない。しかも、戦前戦後の価値観の転換に等しい文化的な変化が、一九八〇年代に起きている。昭和が平成に変わったというのは、その変化を決定的なものにした。二十一世紀の今、この句を若い世代と理解し合うことの意味は大きい。一方的な思いこみでなく、多面的に、私たちは、人間のあるべき姿をどこに求めているのかという大きな視野で考えていきたい。

どんぐりの過去へ傾くオルゴール      小林 俊子

実際にオルゴールが傾いていたのではないかと思う。その隣には思い出のつまったどんぐり。単純な旋律が、作者を記憶の世界に入り込ませる。おそらくは子育ての記憶なのであろう。

奇跡はいつか色鳥(いろどり)を覗く窓     荒木 洋子

 病室の窓であろう。「いつか」は、はかなくとも読めるが、そこに強い意志を読むこともできる。「色鳥」は命の奇跡の象徴であろう。

白樺の病(や)める傷跡野分(のわき)立つ   大平 充子

 風雪に耐えてきた白樺の生命力。今年もまた嵐に立ち向かおうとしている。「傷」が重複表現にも見えるが、しかしこの一文字が果たしている力は大きい。

仲見世へ初凩(はつこがらし)という尖(とがり)木之下みゆき

 「仲見世」は境内の商店街。全国にあるが、歌枕としては浅草であろう。「尖り」と言い終えた俳味が、浅草の粋な感じと良く合う。こういう味わいは俳句ならではのもの。

晩秋の自覚のように目が痛い        市川 唯子

今年もまた酷使してきた身体。「晩秋の自覚」は季節感でもあるし、年齢のことでもある。作者は、この一年を見ることに賭けて生きてきたのであろう。

敬老の謂(いわ)れは星の落下音        山崎 文子

 消えてゆくものの音がどこからか聞こえてくるような気がするから、消滅に向かう者が敬われるのだと作者は言う。悲観とも思えるが、権力や財力、さらには経歴までも相対化する言葉と読んだ。

秋風に掃き寄せられて老人ら        斉藤 良夫

 諧謔の句であるが、写生句には違いない。街角に固まっている老人たちのすがたが見えてくる。自虐にも見えるが、老人ら」という切れには、その後の反撃も予想させる強さがある。
鴎は鴎月下のスカイツリー         飯島 好子

 人が何をしようと鴎は鴎。「月下の」が俳句としての格を高めている。「あなたの望む素直な女には最後までなれない」(中島みゆき詞)と唄う研ナオコの声が聞こえてきてしまうが、それは作者の望まぬことか。

不確かな絆(きずな)の重さ通草(あけび)の実 福田柾子

絆の価値を見失いそうになることの多い現代。木通の実の確かな重さに対して、蔓の重さは確かに不確かである。

この距離の恋ともちがう星月夜(ほしづくよ)  鈴木 郁子

 年齢を重ね、なまじのことには感動しなくなったのだが、この心の高まりは何だ、という出会い。前の柾子さんの句の正反対の世界。

反論の一語まさぐる萩(はぎ)の雨        安田 政子

 雨に打たれてしなだれる萩に、ひと言で切り返したいのだが、それをなしえない気持ちを重ねている。

野の起伏風の起伏や花芒(すすき)       河口 俊江

 景がそのまま韻律の美しさになっている。あるがままに生きるという人生観を漂わせている。

立像の一歩踏み出す新松子(しんちぢり)   杉山真佐子

 景を自らの意志に重ねている。「新松子」もまた自らの状況。新たな気持ちを生み出して生きていこうと。

真っ直ぐに電話がやって来る野分      豊田 いと

 ひどい雨風にはおかまいなしに、電話が掛かってくる。その内容も率直なものだったのだろう。


22年11月

弾痕を深く秘めたる生身魂         香取 哲郎

 弾が体内に残っているのかどうかは分からない。ただ、弾の傷跡についての過去を黙し続けてきた老人がいると言っている。おそらくは戦場の傷なのであろうが、それも決めつけることは出来ない。「生身魂」という浄化されたような存在が、実は現世の生々しさを隠し持っていたという驚き。文学表現の面白さを存分に味わわせてくれる句である。

逆流の影を無頼に鶏頭花          山﨑 政江

上五で軽く切って読んだ。本来の流れとは反対に向かう潮流の中で、鶏頭の花が荒々しい影を見せているというのである。厳しい状況の中での野生の生命力を詠んだと思うが、「逆流」も「ぎゃくる」と読めば、輪廻に逆らって悟りに向かうという意味にもなる。影の無頼もまた修行であるかも知れぬ。

コスモスのいいえいいえと海鳴りへ     市川 唯子

コスモスが、激しい海風になびいて、首を大きく左右に振っている。その振れの方向が、海鳴りにつながっていくように感じたのである。コスモスが求めていたのは、広々とした海原の自由なのであろう。

忘却の水位が増して女郎花         山崎 文子

要するに忘れっぽくなったと言っているのであるが、胸中の思いとして「水位が増して」には実感がある。もちろん眼前の風景として、水位の増した川のほとりに咲く女郎花がまずあるのである。

秋灯目つむることの多くなり        表  ひろ

 この瞑目は回想であろうか、それとも命の先を考えるのであろうか。確かに年齢とともにそうした時間は増えてゆく。自らが、秋の灯火のような存在であるのかもしれない。

後戻りできぬ酷暑を踏むペダル       小島 裕子

生きる道に後戻りはない。猛暑も厳冬も、私たちは先に進んでいくしかない。作者には、八十六年の歳月をそうして生きてきたという思いがあるのであろう。

減反の風がでこぼこ藪からし       木之下みゆき

 稲を作る田、作らぬ田、刈り採られた田、放置された田、さまざまな現代の田んぼが並ぶ光景が目に浮かぶ。藪からしは野性の象徴。人間や稲のか弱さに対峙する存在として置かれている。

殉教の峰より続く鰯雲           文挟 綾子

 信仰に殉じた人々がかつて住んでいた山を、「殉教の峰」としたのは見事。この「峰」は、単に山という存在を示すだけでなく、その人々の心や生き方の象徴として存在している。

どこからが過去秋の噴水ふき上がる     安田 政子

たしかに噴水は、時間をそのまま空間に移し替えている感がある。吹き上げる水を見続けていると、現在という時間が永遠に続いているような気がする。「どこからが過去」という表現は、噴水の本質を実にうまくとらえながら、私たちの人生における時間というものの深い謎に読者を引き込んでいく。

栗飯が噴き出している誕生日        石塚日出子

 「栗飯」と「誕生日」の取り合わせに意外性がある。下五に「誕生日」とあるのを見て、その意外性とほほえましさとで、思わず笑ってしまった。中七の「吹き出している」という写生も巧い。炊飯器でないというのもまたよい。

あったかも知れぬ軋轢いわし雲       増田 元子

軋轢は確かにあったのだと思う。それを「あったかも知れぬ」ととぼけたのは、自分を守るためであり、また相手を傷つけぬためである。自分や他人を許していくということは重要なことだ。許すことの下手な人の人生は、苦しいものとなる。

風は秋にぎりこぶしに片思い        菊地 京子

 男性の「にぎりこぶし」と読めば簡単だが、実は自分の「にぎりこぶし」なのではないかと思う。闘って、我慢して、よくここまで生きてきたなあという思いなのではなかろうか。

モナリザの四角い空を十三夜        小林 俊子

 「モナリザの四角い空」という発見がまず面白いし、「モナリザ」と「十三夜」の取り合わせもまた奇抜で面白い。モナリザという女性が、突然「婦系図」の「お蔦」のような性格かと思えてくる。

※前号の選評中の「アミニズム」は「アニミズム」の誤りです。原初的な宗教形態の一つで、万物に霊が宿るとする感覚や考え方を指します。私たちがふと使う擬人法の背景にも、古代から続くアニミズムがあると考えられます。


22年10月

向日葵の口慎めば田の神ぞ         山﨑 政江

 田の周囲に植えられ、立派に咲いたひまわりに対し、口さえ慎めば、おまえは立派な田の神なんだぞ、と讃えつつも忠告をしている。たしかにひまわりは大きな口を開けてあけすけに喋ってしまう存在のようにも思える。滑稽の句ではあるが、すべての存在が神だと信じるアミニズムにもつながる句で、民族性を感じさせる語感もあって、優れた表現となった。古事記の世界に入ったような文芸性がある。作者の意図がどこまであるか不明だが、この「ひまわり」も、だれかの隠喩のようにも読める句で、ますます面白い。

光り合う廊下素足の修業僧         倉岡 けい

 「廊下」で切って、廊下と廊下が競うように光り合う、とも読めるが、作者の意図は、磨かれた廊下と素足の修行僧が光り合っている、ということであろう。厳しい修行を積んでいる若い僧の存在感が感じ取れる。磨き抜かれたものの美しさである。

さよならがはじまっているすすきはら    表  ひろ

 季節の推移、時代の変遷がテーマ。すべてのものに別れがある。美しく風に靡いている芒原も、やがて一気に枯れに向かっていく。伝統的な無常観を、明るくモダンな言葉で詠んでいるのが、この作者らしい。

夜の白帆あれは晩夏の置手紙        高木きみ子

 この句は、季節の推移を人間の生涯に重ね、ロマンに引き込んで詠っている
。「晩夏の置手紙」に記されているのは、作者の熟年期の記憶であろう。大正生まれの作者の渾身のレトリックが光る。

永遠を水に近づけ炎暑の碑         西崎 久男

 凱夫前主宰の「水の句碑」の句「炎天ゆく水に齢を近づけて」を念頭に置いた句。句業の永遠を願い、言祝ぐ句である。

ぶ厚い森に蛇使い棲まわせて       木之下みゆき

 倒置法でない「て止め」の句は、読者の自由な想像を促す。私の想像力は、アンリ・ルソーや田中一村のイメージを借りながら、神と生物と人間とが自由にコミュニケーションをしていた時代へと遡っていく。

太陽の呪文にひらく蓮の花         栗山 和子
 太陽が昇ると、地上にはあらゆる変化が起こる。その不思議を太陽の呪文と。子どものように純粋な発想だが、「に」の言い回しには年季が入っている。ここにもアミニズムがある。

つくつくし他郷に透けてくる晩年      吉田 季生

 自分というものが見えてくる年齢。住んでいるのが他郷なので、なおさらに客観的に己が見えてくるのである。作者は京都の生まれと聞く。

涼新た杖の長さを考える          山本 敦子

 清新な気分で迎えた秋なのだが、現実には困難が犇めいている。しかし、その困難を前向きに、ポジティブに生きようとしているのである。

雷ひびく空洞のあり傘寿の木        香取 哲郎

「傘寿の木」は、自身のこと。しかし、ともに生きてきた古木が庭にあるとも考えたい。「雷ひびく空洞」は実感。これは、読者が同じ年齢になってはじめて理解できることであろう。

空想を隠す濃霧の後ろがわ         柏木  晃

 「空想を隠す」は誰もが共感できる認識であろう。人間というものは、いつもとんでもないことを考える生き物なのである。

父の木に蝉鳴きじゃくる大安日       和田 三枝

「鳴きじゃくる」は造語のようなものだが、ここでは面白い効果を出している。「大安日」という逆付けにも何ともいえない真実味がある。これも俳味の一つであろう。


22年9月

爺婆が石積んでいる旱梅雨         山崎 文子

 俳味を通り越した諧謔がある。実景なのであるが、賽の河原とか、シジフォスの神話とかを考えざるを得ないのである。年を取っても石を積まねばならない現実ということでもあろうし、人生とはそういうものだという寓意もあるだろう。あるいは、若い者はどうしたという気持ちもあり、さらに川柳的に解釈すれば、高齢となっても払い込まねばならぬ健康保険料のことなども思わせる。さまざまな意味で、現在の状況をみごとに暗示した句である。

にじり口ついに揚羽と血が通う       山﨑 政江

 にじり口は、茶室に入る小さな出入り口。身をにじって茶室に入ろうとしたとき、揚羽蝶もまた、その入り口を潜ろうとしていた。茶会という晴れの場であればこその高揚感である。 

目覚めいるいつも私がいる夏陽       山本 富枝

高齢となってからの自分とは何かという問いかけが陰にあるように思う。自分がここに存在しているということの不思議を思っているようである。そういう意味で、同人句にあった同じ作者の「ひまわりのもとは私かもしれず」もすごい認識の句であると思った。

事切れし身を迎うべく夏座敷        新居ツヤ子

身内の方がお亡くなりになったようである。その亡骸を夏座敷で待っているというのであるが、座敷の用意の種々や心の準備、覚悟などのさまざまのものを、「迎うべく」の五文字ですべて言い表していることに驚嘆した。

一枚の青田が遺書になりしひと       香取 哲郎

 何も言い遺さずに逝った農夫。丹誠をこめた青田一枚が遺されていた、ということだが、その死に、多少の事情がありそうな気配も漂わせている。巧みな句である。

炎昼の影を小さく口ごもる         吉田 季生

 言いたいことをはっきりと言えなかった。その言えなかったことが、「炎昼の影」。そして言えなかった自分もまた小さな「炎昼の影」。自分が「小さく」思えた一瞬を詠んでいる。

熱砂中女の胸の湿地帯           倉岡 けい

汗みどろの胸ということだが、もちろん内面のことも言っている。思い煩うことの多い胸中を「湿地帯」と。みごとなメタファーである。

あじさいや海の入口全開に         小島 裕子

 歩いていくと、海が見え始める場所というものがある。その場所の左右にゲートのように咲き誇るあじさい。受け入れられたと感じた一瞬である。

早朝の砦となりぬ七変化          岡田 治子

 こちらは、紫陽花を「早朝の砦」と。薄明の中に、大きなかたまりとなって紫陽花が咲いていたのである。朝というものの純粋さを守っているという意味にも読める。右の裕子さんの句と比べると、紫陽花のとらえかたにもいろいろあるということが分かって勉強になる。

こころとも帆とも揚羽のたちのぼる     高木きみ子

前半の比喩も美しいが、下五の「たちのぼる」もつきつめた表現である。このように、自分だけの言葉でものごとを言い表すことが大切。

道違え二重の虹に許される         笈沼 早苗

散歩ではない。せっぱ詰まった事情があって、道を急いでいたのである。それなのに道を間違えた。間に合わないかも知れないと自責の念にかられる。そのときに発見した二重の虹。この句も、下五の「許される」がポイント。

噴水に淡き骨あり薄荷糖          稲垣 恵子

噴水のようなものにも、芯に淡い骨のようなものがあるのではないかという発見。俳句では、こうした発見が重要。「薄荷塘」は自分の状況。噴水よりヤワになっているかも。

22年8月


曇天のほたる袋に鍵がある         後藤 保子

 「鍵」とは、「ほたる袋」を開け閉めするためのものなのか、それとも「ほたる袋」が何かを解くための鍵になるというのか。前者ならば、心の扉を開くのは大変だよ、というメッセージが感じられ、後者なら、下を向いて咲くその姿に、自らの生き方のヒントを見たというような解釈ができよう。さまざまな意味を包み込み、謎に満ちたほたる袋は曇天の空の下にひっそりと咲いている。「曇天の」が状況のメタファーとして利いている。

能面の裏に逃げ込む夜の蜘蛛        文挾 綾子

 意味など考えなくとも、取り合わせ自体がまず面白い。しかし、意味を考え出すと、これまた深みにはまる句である。面はキャラクターを決めるために演者が付けるものだが、能面は、角度によって、そのキャラクターを微妙に変えることができる。それなのに、能面は、無表情ということの代名詞にも使われるから、話は複雑になる。糸を張り巡らし、命を奪うことを非難された蜘蛛は、あわててキャラクターという盾を身に着けようとしたというふうに読んだ。

またの世に隙間あるらし立葵        山崎 政江

 立葵の存在感はかなりのものである。花に眼を奪われて、そこに隙間があるなどとは気付かないのが普通だが、それを発見し、何にでも隙間はあるものだと納得した果ての推論であろう。運命論と自由意志の対立というようなことも読み取れる。DNAの研究が進み、運命論が復活しているが、そこにも隙間があるはずだという主張と読んだ。

愛なのか諍いなのか甲虫          斉藤 良夫

 甲虫が絡み合っていたのである。雄同志なら諍いに決まっているが、そうも見えなかったのであろう。いや、雌をめぐって争うという行為自体が愛だという認識かも知れない。人間以外の動物にも同性愛はあるというから、話はさらに複雑になる。

忠敬の地図のない旅青嵐         木之下みゆき

 伊能忠敬は、たしかに彼の作ったような精度の高い地図を持たずに旅に出たのである。何もないところに、新たなものを作り出すことのすばらしさ。俳句にも通うところがあるだろう。マニュアルで作ったものの力は、底が知れている。

情熱の一端を見る草いきれ         岡田 治子

何を見たのかはさっぱり分からない。ただ「情熱」という抽象語と「草いきれ」という季語によって、むんむんと熱気が伝わってくるばかりだ。さらに「一端を見る」で、もっとほかがあるということも言っている。よく分からないが、とてつもなく大きなエネルギーを持った人物を想像した。こういう俳句もあるのだなと思った。

きれいな風ばかり集めて風鈴屋       山崎 文子

 裏返せば、世の中にはきたない風もある、ということである。だが、ここにそれはない。そのことを、裏表を知っている作者が、ちょっと皮肉っぽくつぶやいている。皮肉っぽいが、しかし感動している。うらやんでいると言った方が良いかもしれない。

切株の談合黙然と夏没り日         飯島 好子

 「切株」どうしが話し合っている。「夏没り日」は口を挟まない。挟まないが、それを見守っている。景を擬人法で読んで味わいを出した句。人の世界の暗喩とも。

薫風裡足早に来る広報紙          岡安百合子

 滞らなかった回覧板か、あるいは市からの配布か。「薫風」と「足早に来る」がうまく調和している。


22年7月

 新しく俳句を始めたという会員も増えてきたので、今回は、少し基本的なことも含めて書いておこうと思う。上達の手がかりにしていただきたい。

夕暮れの話をしよう水芭蕉         市川 唯子

 若々しく美しい水芭蕉に、そろそろ夕暮れの話をしよう、と語りかけている。「夕暮れの話」というフレーズが、ただロマンチックだというだけでなく、人生の黄昏ということなども思わせ、深さを生み出している。

人ははるかに脱稿の青時雨         山﨑 政江

 文章を書くと言うことは、徹底して独りになることである。独りになって自分と向き合い、自分と会話する。そうした時間をくぐり抜け、やがて現実世界に還ってくる。そのときの青時雨。「脱稿」は原稿を書き終えること。書き終えて、ああ雨が降っていたのだった、と思い出す。「青時雨」は若葉の季節に時雨のようにさっと降ってくる雨のことである。

涅槃図の妣の寝息が濡れている       田中 米子

 涅槃図は、旧暦二月十五日の涅槃会(新暦の三月十五日に行われることも多い)に掲げられる釈迦入滅の図で春の季語。釈迦の入滅を悲しむ弟子や動物などが描かれている。「妣」は亡くなった母。「亡母」と書いて「はは」と読ませるよりは「妣」の方がよいと凱夫前主宰は語っていた。ただ「母」と書いて、亡くなった母であることが分かる句になっていればその方がよいとも。この句の場合「母」ではやはり誤解が生じるだろう。涅槃図を見る作者の内部で、入滅した釈迦と亡くなった母のイメージが重なったのである。「濡れている」が、その時の気分と春らしさをよく伝えている。

下唇少しゆるめて薔薇を嗅ぐ       赤羽根めぐみ

「下唇少しゆるめて」は、意図的にそうしたということではなく、そうなっていたことの発見。俳句の基本は発見。この句のように自分の行為を客観的に見て、そこに何かを発見すると面白い句になることが多い。

新じゃがの皮の味わい尊厳死        水沼 幸子

 座五(下五)が唐突に見えるが、じゃがいもの芽が有毒であることは知られているから近接関係はある。最期まで人間らしく生きようということを気取らずに詠った。

牡丹の夜がくずれていく重さ        小島 裕子

 「牡丹」と「崩れる」の組み合わせは月並だが、それもここまでひねれば斬新。しかも実感と深さがある。

わだつみに森は茂りて管楽器        平垣恵美子

 マングローブであろうか。緑の生い茂る海に響き渡る管楽器の音色。季語は「茂り」で夏。

抱擁はまねごとで良い百合の花       松澤 龍一

 ハグの文化を持たぬ日本人。そんなに本気で抱くと、花が毀れてしまうよ、と。

新緑の寂しくなってゆく躰         表  ひろ

 日に日にふくれていく新緑と自分の身体や内面との対比。

はや宙の眼に入りぬ今年竹         荒木 洋子

 「宙」は「そら」。竹が伸びて天空の視界に入ったというのである。

柔軟に己を通す桐の花           岡田 治子

 作者には、そういう桐の花に対するあこがれがある。

あしかびが伏兵となるお船蔵       木之下みゆき

 「葦牙」は葦の若芽で春の季語。船蔵の周りでとんがった武器を持つ伏兵のようだと見立てたのである。

新緑にとけだしている凸レンズ       渡辺 礼子

 老眼鏡か虫眼鏡かと思ったが、自分の眼の水晶体かも。初夏の日射しに光る新緑に眼が溶け出していく。

春眠や海の足音残すよう          山崎 文子

 「海の足音」は現実ではない。うつらうつらして、そんなものが聞こえていたような気がするということ。

確かに夏百里に戦闘機の追尾        増田 元子

 先月号の評論で取り上げた句。「確かに」が効いている。

マシュマロの声で呼ばれる麦の秋      平岡 育也

 呼んだのは当然女性。貌も色白だったに違いない。

蕗を煮る骨が空気を欲しがって       倉岡 けい

 身体感覚を暗喩として表現。そんな感じがするということ。視覚だけでなく、さまざまな身体感覚を詠みたい。

血液のやたらとさびし夏はじめ       篠田 道子

 これも身体感覚。奥底からわき上がってくるような寂しさ。「血液の」と言ったところに新しさと実感が生まれた。

前進のための忘却髪洗う          柴田 澄子

 何ごとも前向きに考える。たとえ「忘却」であろうとも意味はあるはず。「髪洗う」も夏の季語。

手拭に染め分けられて夏祭         富澤さち子

 連ごとに別の色の手ぬぐいを巻いていたのである。「染め分けられて」と言ったところが俳句的。ひしめき合う祭の群衆が見えてくる。

春山に母の支配を置いてくる        君塚 敦二

 母子分離の下手な日本人。それもまた一つの文化。

母の忌や緑の中のインク壷         山崎 龍水

 「緑」は夏の季語。生い茂る葉や草の緑である。夏に亡くなった御母堂の忌日、生い茂る緑のまっただ中に、思い出のインク壺が置かれている。色彩の対照が印象的な句。


22年6月

船底を叩くは挽歌春の星          山崎 政江

 夜の航海。船底を叩く波の音が切々と響いてくる。作者はそれを挽歌と聞いた。空の星々は、この世を去った人々の魂を宿して輝いている。俳人の訃報のつづく昨今であるから、なおのこと心に響く。
 
胎の子と田植をせしと遠目妻        香取 哲郎

 身重の身で田植えをした若いころを思い起こす妻。支え続けてくれた妻の苦労を改めて思う夫。長い年月を共にしてきた二人の心のつながりがさらに深さを増した瞬間。

紫木蓮自転車にある半生記         廣澤  淑

 八十五歳を過ぎても、作者は自転車で句会に来ていた。九十歳を超え、さすがにそういうこともなくなったが、自転車は、作者の人生に豊かな経験をもたらした乗り物であった。「紫木蓮」は作者の自負であろう。

逃水の奥から嗚呼と深海魚         鈴木 郁子

 リアリズムで読めないこともない。強い春光の先に水族館があって、その扉の向こうの暗がりから観客の感嘆の声が漏れてきたと。しかし、それで終わる句ではない。古来「逃水」は、そのように世を逃げて生きるということを導き出す言葉であった。隠れ棲むことへの憧憬が作者にあると読んだ。

もの言うは空を苛む桜狩          荒木 洋子

見事な桜。黙って見よということである。だが、「桜狩」は、作者のカモフラージュであったかも知れぬ。本当のことを告げるということは必ずしも良いことではないと、作者は考えているような気がする。

廃校の春を惜しみぬホームラン       水沼 幸子

 廃校の校庭が地域に開放されたのであろう。そこで草野球が行われている。本来なら、新入生の声が空に響いていた季節。今は年長者がバットを振る。芯でとらえられた打球は、高々と空に舞い上がり、外野手の頭上を越える。作者はそれを、長く学校として務めてきたその廃校への祝砲と受け止めたのである。この中七の切れ、これこそが俳句。

指揮棒なき深夜の手術寒戻る        文挾 綾子

「指揮棒なき」は作者の不安。自分ではどうすることもできない不条理への動揺。「Si」音の頭韻が寒々と心に迫る。

ぼうたんに黙の重心かさねたる       平垣恵美子

牡丹の花弁の渦を、沈黙の重心を重ねたものと。またそれは、言葉を発せられずに見つめ続ける作者の立ち姿でもある。独自の感覚で牡丹を語って成功。「牡丹」と言えば「崩れる」、「コスモス」と言えば「揺れる」、そういう月並からの脱却が重要。

たかが半音下がりきれない四月の雪     増田 元子

 小節(こぶし)の音程が取れなかったのだろう。作者は詩吟を得意とするが、民謡でもなんでも、実際の旋律というものは、単純に音符で表せるような代物ではない。歌うという行為は、実に複雑で微妙な行為である。天候もまた同じ。温暖化といいながら寒い春の日が続く。句のテーマは「もどかしさ」である。世情もまた。

著莪の花どこかで繋がっていたい      馬場 益江

 群生する著莪の花。どこかで繋がっていたいという思いを、作者は花と共有した。



22年5月

東方の迷路哀しいイエスの眼        松澤 龍一

 嘱目の吟行句なのであろうが、さまざまに枝分かれする東方教会の歴史なども思わせる。とすれば、これは世界史というもの自体が負っている哀しさを詠んだ大きな句ということになる。どん欲な人類の性(さが)が、コントロール不可能な歴史というものを作り出し、そこにさまざまな悲劇を繰り広げていく。イエスも救いきれなかった二千年の歴史と、その結果としてのこの状況。俳人でもある当別修道院の高橋正行神父は、東方教会の研究もされていて、原始キリスト教の姿を探るには、プロテスタントより千年も前にカトリックと枝分かれした東方教会の姿を見るべきなのだと教えて下さった。東方教会では、火と心を重視するところが多い。世界俳句大会で行ったブルガリアの教会でも、蝋燭が重要なアイテムになっていた。

地虫出る夜のクレパス折れ易く       山崎 政江

 「地虫出る」は昼のことであろうし、クレパスが折れたのは夜だというのだから、上五で切って、クレパスが折れたその瞬間に、昼の地虫の姿を思い出したと読むべきであろう。地虫は春の季感ではあるものの、突然目の前に転がり出ると、やはりびっくりする。虫の嫌いな人ならなおさらだろう。クレパスは、クレヨンより湿った折れ方をするから、その感覚が、昼の地虫の記憶を呼び起こしたのであろう。こういう句に「意味」を読もうとすると分からなくなる。「気持ち」を読むことが肝要。また「出る」の「る」と「夜」の「る」が面白いリズムを作り出していることにも注目したい。

鯛焼のぬくさに泣ける夜の道        稲垣 恵子

もちろん泣けてきた理由はほかにあるのである。ただ偶然そのとき鯛焼を持っていた。それをこのように言ってしまうのが俳句なのである。表現形式というより、ものの考えかたとか人間性とかいう部分の問題である。俳句表現の面白さとは何かを論じるには格好の作品である。この「ぬくさ」を季語とすることに異論を唱える人もいるだろうが、私はむしろ春季の句と考えている。

長命の手相を得たり耕せり         香取 哲郎

 長生きをし、これからも長く生きられそうだということを「長命の手相を得た」というふうに言ったところがポイント。そこから「耕せり」への展開も実に巧い。「長命」と「耕せり」が「手」で結びついている面白さ。語尾の「り」を繰り返すとうまくいかないことがあるが、この句は実にその繰り返しがうまくいっている。中七の切れが鋭いからである。

祈るとは氷柱のような壊れもの       山崎 文子

 上五を「祈るということは」と解する人も多いだろうが、「祈ってしまうとは」と取ると分かりやすい句になる。こんなことで神に祈ってしまうとは、私は氷柱のような壊れものだ、ということである。この直喩は良い。どんな壊れものなのかというイメージを鮮明にしている。冷たくて、尖っていて、透明で、少し危険な存在なのである。

花冷えの鳩へと投げる頭痛薬       赤羽根めぐみ

 こういうことをしてしまうのが人間。日常の自分の所作を言っただけなのだが、人間という存在の可笑しさがうまく描かれている。映画のカットに使えそうな光景である。

しみじみと返す手のひら鳥交る       水谷 田鶴

 「鳥交る」という生命力の極地を言う季語に対しての「返す手のひら」であってみれば、年を経たことの述懐でないわけがない。こういう句を、季語が動かせるなどと批判する人がいるが、それは当たらない。動くとか動かないとかではなく、「しみじみと返す手のひら」に「鳥交る」を響かせた世界を、作者は創り出したということなのである。「手のひら」を「掌」などと書かなかったのも好ましい。

タンポポの真綿のような育て方       和田 三枝

現代川柳のような味を持った句。繊細な育て方を認めている面もあるのだが、風が吹いてきたらどうするのよ、飛んでっちゃうじゃないの、と心配している心もある。

夕東風やこころの地図に描く母港      吉田 季生

古里を離れ、異郷の地で長く暮らした人の句。言葉が美しすぎてセンチメンタリズムに傾きかけているが、作者の実体験がそれを支えている。

焼野ゆく地平に死後の石あるか       月村 青衣

 焼野の実景描写と読んでも迫力があるが、「地平」は「この世」というニュアンスなのであろう。「死後の石」は秀逸。かなり考えさせられる。「野」と「地平」という語が多少かぶりぎみなのが惜しまれる。



22年4月

花の兄溺れるように村がある        戸辺 俊羊

 「花の兄」は梅の花のこと。他の花に先駆けて咲くので、その名がある。「溺れるように」は、山の斜面一面に咲いた梅の花の下にある集落を言っているのだろうが、昨今の地方の状況を暗示してもいる。

蜂蜜の糸あやつって雛の日         杉山真佐子

 訪ねてくる子どものために菓子を作っているのであろう。
「あやつって」にはずんだ大人のちょっと入り組んだ明るさが現されていて面白い。

地境にいざこざのあり蕗の薹        斉藤 良夫

中七で切って人間世界の話なのであるが、蕗の薹の世界のファンタジーとも読める。「蕗の薹」という季語の柔らかさが距離を置いてもめごとを見る作者の生き方をうまく現している。

容赦なき指摘もあって寒の木瓜       清野 敦史

 具体的には何も分からないが、厳しいことを言われたのを受け流しているのである。赤くなったとも読めるがそれではただの洒落。木瓜を決め込む、とでも言うべきか。

芽吹きつつ陽を抱き海を知らない木     文挟 綾子

 「海を知らない木」という気づきがすばらしい。さまざまの状況を暗示する力のある句。

メビウスの輪を往く列車風光る       表  ひろ

半回転して裏が表に連続していく平面空間がメビウスの輪。表を出発した列車は、いつのまにか裏を走ることになる。ねじれた空間を走り続ける列車は人間のメタファーだろうか。

春浅し水に行き場のない無力        片岡 幸子

「無力感」の「感」を略してちょっと不思議な世界が作られた。「行き場」がないから「無力」だというより、「無力」だから行き場がないという感じ。

ワイングラスへ指春禽の嘴となる      山崎 政江

 形が似ているというだけのことではない。餌を狙う攻撃力までも感じさせる指なのである。

蒲公英の裸で咲けり田圃道         豊田 ひで

「裸で」一語で俳句になった。俳句にはこういう発見が重要。生命力を感じさせ、生き方まで考えさせる。

雪霏々といま原点に立っている       岡田 治子

 「霏々」は雨や雪が降り続くことだが、そこにものごとの継続への暗示がある。白一色の世界の原点は自分。

春寒の鞄に抱きついて眠る        赤羽根めぐみ

 電車の中であろう。働きつかれた都会の一コマ。



22年3月

再起の音か枯草を踏み帰る         平垣恵美子

 枯草を踏む音に、自分自身が励まされたのである。「帰る」が効いている。枯れ草は土に返り、また新たな草を育む。その枯草を踏みしめて家路を急ぐ作者は、何か大きな命の循環のようなものに気づかされた。立ち直りには時間が掛かるものだが、そういう状況にある読み手に、希望や勇気を与える作品である。

落日のあと風になる蕗の薹         岡田 治子

 中七で切って普通に読めば、日が暮れて風が出てきたというだけのこと。だが、この句には、蕗の薹も自分も、さらには万象のすべてが風になると思わせる響きがある。早春の明るく柔らかい日射しが落ち、風しかとらえられない闇が訪れる。存在が消え去るときの寂寥の美。

地の穴に軍歴を燃す散葉を焚き       逆井 和夫

「燃す」と「焚く」は通常ならどちらかを消すところ。作者がそう試みた形跡もある。しかし、この「軍歴を燃す」は内面の問題。落葉を焚きながら、心に軍歴を燃やす、と読んだ。作者は、少年兵として奈良で特攻機を作らされていたと聞いたことがある。謹んでご冥福をお祈りする。

空手なり寒林ことごとく光         杉山真佐子
「くうしゅ」と読んだ。嘆きではない。むしろ自負である。「空手」であるという誇りが、生きる力を生み出す。無であることを力に転換する境地。

紅梅の一枝極楽より戻る          山崎 政江

 見事な紅梅の一枝は極楽から戻ってきたものに違いない、というのが表の意味。だがそこには極楽から戻ってきてほしい人の俤があり、また、自分は極楽から戻ってきた存在だといううがちもある。それらは比喩や推量のはずだが、それを断定してしまうのが俳句。「俳句は断定」とは凱夫の言葉。そう感じたら、そうだと言い切ってしまうことだ。

目薬の耳に回りぬ漱石忌          香取 哲郎

「目」と「耳」のマ行音の呼応が軽やか。漱石と目薬の関わりを思いめぐらしていたら、名字が夏目なのであった。漱石の低徊趣味に合致したとぼけた味もある。作者に試されているような気のする句で、そういえば開戦日の翌日であったとか、いろいろと考えてしまう。

雨の弾力ひいらぎの独り言         小柳 俊次

「雨の弾力」は素晴らしい発見。「ひいらぎ」だけで季語とするのは無理だが、無季としても「雨の弾力」だけで採れる句だ。

少年の匂いとなりぬ芽吹き山        河口 俊江

 中七で切る。子どもが、もう幼児とは呼べない存在になってきた、と。「芽吹き山」は、その少年の背景であるとともに、その子のイメージでもある。

裏白は縮みやすくて母の席         田中 米子

 「母」は、自分の母であるとともに、母としての自分。母がそうであったように自分もそのような状況に。


22年2月

人参スープまた学校の夢をみる       市川 唯子

 おどろおどろしい色をし、独特の匂いを発する人参スープは、学校という場所の象徴だ。大人は栄養があって美味しいと言うが、体が受け付けないという子どもも多いのである。しかし、そうした一般論を超えて、作者には、特別の思い出があるのだろう。人の精神は、幼い頃の体験で組み上げられている。人は、幼い頃の傷を撫で、夢と現実の誤差を埋め合わせながら生きている。今私たちが傷つくことの大方は、あの頃傷ついたことなのである。

最終便むささびとなるおんなたち     木之下みゆき

 その日最後の便に向かって、女たちが突進する。コートを羽織って疾走する彼女たちの姿は、まるでむささびだ。だが、話はそこで終わらない。車内に座り、あるいは立って、焦点の合わない目で中空を見つめる女たちは、すでに人間ではないものとして、異空間に向かっている。乗っているのは、銀河鉄道?、それともネコバス?

うす暗き記念日が来る冬の海        荒木 洋子

 十二月八日である。その日に対する思いは人によって異なるだろうが、単純な日でないことは誰もが感じている。宣戦布告を発した方にも、受けた方にも、巧妙な計算が働いていたからであろう。

救急一泊過ちのように寒い         山崎 政江

 過ちを犯したわけでもないのに、なぜこんな気分にならなければいけないのか。体の苦しさが、心の苦しさを呼び込む。病んだ者の実感を巧く言葉にしとめた。作者は、血圧の上昇で倒れた由。お大事に。

この角を曲がればひとり冬が来る      山本 富枝

 愉快な仲間とのひととき。帰路に着き、自宅が近づく。そのときの一句であろうが、「この角」は、また人生の曲がり角をも意味している。

マヨネーズ独りの冬へ絞りだす       小島 裕子

ああ、ひとりなのだと感じる瞬間が、一日に何度か訪れる。残り少なくなったマヨネーズを、最後まで使い切ろうとする精神は、生きることへの執着、執念に通じる。

猟銃の音を逃れし夜明星          香取 哲郎

 夕べどこかで猟銃が鳴っていた。この夜明星は、撃たれることもなく、今朝も耀いている、と読めるが、猟銃の音を逃れて眠った自分の目覚めに夜明星が耀いている、とも読める。「し」は、回想の助動詞「き」の連体形だが、鎌倉時代からは、終止形にも使われるので、こうした意味の不安定さが出てくる。どちらが正しいと言うことではない。俳句は、さまざまな解釈のすべてを重層的に含んで、存在するのである。

冬の水遠くの大樹まで覗く         杉山真佐子

「覗く」のは自分。「冬の水」の厳しさに触発されて、精神の有りようが少し変わった。それで遠くまで覗くようになったというのである。凛と澄んだ冬の空気が、「冬の水」という言葉から導き出されている。

術痕へ日暮の重さ寒椿           平垣恵美子

手術の痕へ日暮れの暗さが押し寄せてくるとき、その頃の記憶が甦る。「寒椿」には、幾星霜の労苦を季節の循環の中で生き抜いてきた時間が閉じ込められている。

もう天に届いているか枯木立        稲垣 恵子

長く生きた人の死を詠っている。仏教で言えば四十九日のころ、魂は次の世に生まれ変わる。「枯木立」の前で切れるが、「枯木立」は、死者と重なり合う存在でもある。

聞く耳をいつしか持てり日向ぼこ      文挟 綾子

年齢を重ね、若い頃は受け入れ難かったような話を、肯定的に聞いてあげられるようになったということ。そうした精神を、心理学ではカウンセリングマインドと言う。人は誰も、自分の話を肯定的に聞いてくれる人を求めている。

寒月やみんな気弱な傍観者         吉田 季生

寒月を傍観しているのではない。現実の問題の核心を、月を見るように遠くから傍観している者ばかりだというのである。


22年1月 

 今月は、上位にそこそこ読ませる作品が多く、掲載順を決めるのに苦労をした。巻頭から10ページくらいまで、あまり差がないように思う。それぞれ句柄も違うことだし、こうした場合は、一列に序列を付けることなどできることではない。ただ茫洋と、おおよそのグループには別れているということである。力の拮抗は頼もしいことだが、図抜けた個性も、もっとほしい。

竹人形竹に戻れずしぐれけり        小島 裕子

 竹人形は土産品として各地で作られている。指先ほどの小さな細工物もあるが、掲句のは、それなりの大きさを持った人形であろう。「戻れず」と「しぐれけり」で、境遇と心情の両方を暗示してみせたのは見事。

一葉落つ波紋に明日という答え       杉山真佐子

 波紋は水に落ちた桐一葉のものであるが、それが人の世に何かあったという暗示になり、「明日という答え」を導き出す。そう、どんなときにも、必ず明日がある。

どんぐりは母の痕跡誰か来る        山崎 政江

 すべてが亡き人に結びついてしまう時がある。気配が母であるはずもないのだが、はっとするのである。「どんぐり」という湿った叙情を持たない対象だからこそ生きた句。

樫の実の愚直を嘆く竹箒          倉持 紀子

 愚直と言えば佐藤鬼房の「切株があり愚直の斧があり」を思い出すが、こちらは女性の生活句。むしろ愚直を気取る生活力のない男に苦笑しているようである。

同棲や荒野に干菜吊しては         市川 唯子

 その頃は、二人で荒野に飛び出したような気がしていたものだ。「干菜」の生活臭が妙な現実感を生んでいる。

鎌傷の指の火照りや黄落期         香取 哲郎

 古傷ではない。今日も働いたというその傷である。農を続ける作者の意気が伝わる。傷もまた命の証。

源平の欠片を拾う冬の鳥         木之下みゆき

 鎌倉の昔の痕跡を訪ね歩いたという句だが、「拾う」から「冬の鳥」への展開がよい。

ピザ切って冬満月をおののかす       鈴木 郁子

 軽い滑稽句だが、人事の裏もありそうで面白い。誰かに忠告でもしたのだろうか。

小春日や空の気持を浴びている       戸辺 俊羊

 子どものように純粋な句だが、空の限りない明るさと、自分との間のちょっとしたズレに深さがある。

唐辛子夜を煮つめて脱稿す         福田 柾子

 唐辛子を煮たのではない。全身全霊で文章を書き終えたのである。それを「夜を煮詰めて」と。巧い。

運命をつらぬいている仏手柑        岡田 治子

 難しい句だが、「仏手柑」という奇妙な形の果実を見て、それが背負っている運命を感じ、それを自分に返したのであろう。

21年12月

脳がかたいと木の実独楽のうたたね     山崎 政江

 えい、もう寝てしまえ、ということ。独楽のようにくるくると働きすぎた末のことである。

へこたれぬ樹木狭霧の呪縛にも      木之下みゆき

 この国の湿った人間関係にはうんざりするが、作者は霧にまつわりつかれた木から学ぶところがあったようである。

 以上二句とも、対象と自身の重なりが見事。

秋の雲違う自分がいたような        山本 富枝

 私ってこんなじゃなかった、と。ドッペルゲンガーを垣間見たとも読める。「違う」が利いている。

桐一葉何か庇っておりにけり        岡田 治子

 地に落ちた桐の葉の下には何が?最期まで庇うのは母の愛か。「桐一葉」をこのように詠んだ人はいないだろう。

変わるもの変わり秋思の地平線       荒木 洋子

 変わるのだと分かっていても秋思。

野には野の気高さ白い毒きのこ       市川 唯子

 もともと気高さとは毒であったかも、と気づかされる。

風蝕の民白鳥を帰り来ず          表  ひろ

 消滅に向かう移住の民。「を」の複雑さが世界を広げる。

走りくるもの広角へ草もみじ        小林 俊子

 低い視線で、犬か子どもが駆けてくるのを見ている。対象がどんどん広がっていく。「広角」が抜群。

目を病むや山野にわかに黄落す       香取 哲郎

 状況と心象と状況の重なり。不安の谷に陥っていくよう。

トラックに銀のたてがみ大刈田       稲垣 恵子

 収穫した稲が靡いているか。西日まで見えてくる。

浅すぎるのに虫籠となる頭蓋        杉山真佐子

 頭の中が虫の音にあふれたということに自己対象化の滑稽を加えた。滑稽が風情になっているところが良い。

木の実独楽母を忘れている時間       野口 京子

 母を亡くした大人の句ではなく、小さな子どもの様子と読んだ。人間関係の危うさも感じ取れる。

檸檬かじって人體を容れ替える       月村 青衣

 「人體」で採った。

安珍をころりと忘れ穴まどう        平垣恵美子

 「まどい」でなく「まどう」なのが可笑しい。悩み多き蛇なのである。恨みを忘れるほどの混迷。

晴れた日の松のため息とんぼ来る      岡田 哲夫

 単純さが面白い。米寿を迎える作者の日常が見えてくる。

名月は魔法のランプ鍵の穴         加倉井允子

 ややこしい俗世の問題を、一気に解決してくれる魔人を待っているのである。

時雨忌のオカリナ髪を振り解く       鯉沼 幸子

 大きく体を動かしての熱演。言葉の組み合わせが斬新で、切れも見事。

下町はナイフの匂い秋暑し         丸山 蔦惠

 鉄錆と言うところをナイフと。危険な匂いが加わった。

21年11月

階があるのだろうか蝉の死期        山崎 政江

 蝉の臨終にも、人の死後のような段階があるのかと問うている。仏教の輪廻で考えれば、命はさまざまなものに生まれ変わるのだから、蝉の命にも人の死後と同じ段階があることになる。しかし初七日とか四十九日というのは、人間世界の方便であろう。蝉は解脱するのだろうか。解脱するとしたら、一度、人間になってからか。いろいろと考えさせてくれる。「死期」は「しご」と読んだ。

右も左もコスモスという睡魔        倉岡 けい

 なるほど、あれは睡魔であったか、と納得。実際には、ご本人の眠気の言い訳なのだろうが、そのユーモアがすばらしい。

遮断機のそこから不安敗れはちす      鈴木 郁子

 踏切があって敗荷があるというただの取り合わせではない。敗荷の折れ曲がった姿が、遮断機を想起させている。①敗荷を見る。②遮断機を連想する。③ある記憶から不安がわき起こる、という段階があると思う。あるいは遮断機から敗荷が想起されたか。人の心理の不可思議なプロセスが見えて面白い。

曼珠沙華見送る丘をもっている       市川 唯子

 基本的には写生なのであるが、主客を複雑にした分、情報量が格段に増加し、新鮮になった。「ああ私には丘があって良かった」という気持ちが伝わり、さらに、丘ってなんだろうと考えさせる力まで生まれている。「曼珠沙華人を見送る丘の上」では、ただごとで終わってしまうのである。

出口なき樹林の吐息晩夏光         河口 俊江

 あちこちの俳句大会で大活躍の作者。葛藤が結実してきた。美しく現実を詠むことに闌けた作者が、現実を超えた世界を描き始めている。まだ作品に迷いがあるが、躊躇わず新しい世界に向かって進んでほしい。

乱読の数だけの恋文化の日         逆井 和夫

 恋の物語に没頭する秋。作者は、若い頃から無類の本好き。だからこの句が面白い。

団欒にゆるむ筋肉山頂にて        ひねのひかる

 下五の意外性に驚く。そして納得。険しい山道であったに違いない。

旧約の月誘えり史都の谷          表  ひろ

 「出エジプト記」であろう。イスラエル人がモーセを先頭にシナイ目指して出発したのは、満月の夜であった。その夜の月を呼び出すような月が、遺跡の谷に昇っている。

秋扇象形文字になる老人          山崎 文子

 意味ありげな所作をした老人がいたというのであろうが、考えてみれば、老人は、あらゆるものを背後に宿しているのだから、この世のすべてを表す象形文字かもしれない。

飛行船秋を自在に遁げてゆく        倉持 紀子

 「逃げている」という見立てが眼目。そして、そこに作者の内面の投影がある。「自在に」がなかなか利いている。

21年10月

待つことを祈りとしたる稲の花      木之下みゆき

 稲の穂の姿を祈りと。むろんそれは作者の胸の内でもある。写生の手法だが、深い精神性が生み出されている。

貧しさの天に糸吐く秋の蜘蛛        吉田 季生

 上五で軽く切って読みたい。唾からの連想かもしれぬが、意味を超えた詩的な広がりが生まれている。

盂蘭盆会だれに追われることもなく     山崎 政江

 すでに、ものごとを催促する人はすべて鬼籍に。自由という孤独。自立という寂寥。

向日葵のうしろ姿を責められず       平垣恵美子

 振り向く様子もないひまわり。しかし自分の孤独は、だれのせいでもない。

露の修羅いくさ尊ぶこと恐れ        表  ひろ

 丸く転がり合い、一つになりたがる露を見ての発想。戦後思想に欠落していたものがあったかと考え直してしまう。

影法師洗って夏の仕舞い方         市川 唯子

 ひと夏の思い出は影。深い滑稽味がある。

罠かけるとき鯖色の千切れ雲        松澤 龍一

 表面的には無季だが秋季の句。そのやり方自体を「罠かける」と自己言及したとも。

台風の忠実すぎる解説者          和田 三枝

 日常を忠実に詠んでの滑稽。「すぎる」が利いている。

飛行機を吐き出している雲の峰       斉藤 良夫

 平凡な素材を、中七で俳句にしてしまった。

白扇に汝の一語をたたみけり        香取 哲郎

 書かれていたことではない。言われたことを畳み込んだのである。忘れがたい一語。

気をつけのままのストローソーダ水    赤羽根めぐみ

 座の様子を想像させる。お見合いとか告白の失敗とか。

新涼をくりぬいてくる小型犬        岡田 治子

 独特の実感がある。

夜鷹啼くたちまち一群の軍靴        月村 青衣

 現実に起こり得るという思想があるのだろう。

21年9月

凋落を輪廻とおもう蝉の殻         山崎 政江

 たとえ唯物論で考えても、分子、原子は他の何ものかに受け継がれる。むしろそれを「凋落」と見ることが幻想なのである。季語と作者の世界観がうまく響き合っている。

やわらかき拳を持てり生身魂        香取 哲郎

 「やわらかき」一語で俳句に。生身魂の人柄ばかりでなく、その人の手を取った作者の人柄まで伝わってくる。書かれていないことが伝わってこそ俳句。

新盆の雲の根っこを歩く人         山崎 文子

 さて、この人は盆迎えに歩く人か、それとも亡くなった人の幻影か。「雲の根っ子」と言った大きさが、この句の命。

青嵐卵を割って火が二つ          杉山真佐子

 左右のガスコンロ、さてどちらを使うか。野営の火と見れば、青嵐で吹かれた炎が真二つに割れたとも。さて、どちらの読みがよいのだろう。

海の日の海に倒れて眠るなり        市川 唯子

 実体験として読んだが、幻想の海とも。「母の日の母」「父の日の父」などは類句が多いから気をつけたい。

夏燕来ぬ日を風の蟠り           河口 俊江

 何か不満な一日の気分がよく伝わる。

吊り橋の直下が遠い万緑裡         逆井 和夫

 「高い」を「遠い」と言って実感を強めた。

熱帯夜柱時計の脈高し           栗山 和子

 「脈」一語で俳句に。

美しく掃きしたたかに水を打つ       和井田なを

 「美しく」と「したたかに」の対比を楽しむべき句。

羊水の中の居心地遠い蝉          岡田 治子

 挽歌の夕暮れの心地よさ。

凌霄花の生き生き散って参観日       馬場 益江

 下五の展開が見事。

踏み込んでリターンエース雲の峰      山本 敦子

 「踏み込んで」に実感がこもる。

炎昼の耳から逃げる記憶力         吉田 季生

 加齢の実感をユーモラスに伝えている。

轍尽く汗にはばまれたる砂丘        荒木 洋子

 もうこれ以上進めませんということ。

耳朶の鳴る町の動いて夏祭         平垣恵美子

 祭太鼓が響き、群衆がうごめく様子がよく伝わる。

夕焼けの湖ストローが届かない       篠田 道子

 ロマンの中に現実の滑稽がまぎれこむ。

21年8月

遅過ぎた父の拳骨麦の秋         木之下みゆき

 「麦の秋」というのは、収穫の季節ということ。豊かに実るべき時期に、そうはならなかった子どの姿を見たのだろう。しかし、事態は急変を予感させる。世間一般の物差しで計れば遅すぎたのかもしれないが、そこがスタートとなるのかもしれない。人生は最後まで分からない。
透明な敬礼虹が濡れている         松澤 龍一

 「透明」という言葉が伝えてくるものは、一方で純粋さだが、他方で思想の希薄さでもある。ものごとを自分で考えない若い従順な兵士の敬礼。その先に虹のロマン。それは、若い兵士を死に向かわせる誘惑であったかもしれない。人が思想や国のために死ぬのは、そこに叙情があるからだ。かつてこの国の兵士も、国を守り家族を守るという誇りに心を奮い立たせて死に向かっていった。その心を突き動かし、支えたものは、理屈ではなく、湿った叙情であった。そのとき叙情は、国家が若者を戦争に駆り立てるための道具となったのである。濡れた虹、恐るべし。

点滴の源流にある青嵐           山崎 政江

 点滴の管を辿って視線を上げていくと、薬を入れた瓶が吊されている。ふと気づくと、その背景に窓があり、緑の木々が激しく揺れ動いていた。その「青嵐」が、作者の心象と合致する。激しく揺れ動く不安と期待。作者は、自分の心の源流の姿に気づいたのである。

蟇なくした語尾を考える          表  ひろ

 語尾をなくした 「蟇」は、考え続けるしかない。日本語では、肯定も否定も、すべて語尾で決まるからである。完結しない思考を、蟇蛙は延々と循環させていく。一方で作者は、「蟇」と読み始め、そこで言い淀む。すでに出来ていたはずの七五が出てこない。はて、それは何であったか。蟇と作者は、終わりのない思考の円環にはまっている。

どくだみを抜いて肘まで蛍光色       杉山真佐子

 どくだみの強烈な匂いと白い花の残像を「蛍光色」と。言い得て妙。

雲切れて生きる力の大青田         高木きみ子

 雲の切れ目から陽光が差したその瞬間の詠である。どんよりとした大青田が、一瞬にして生命力に満ちあふれる。

てのひらに雨を溜めたる太宰の忌      香取 哲郎

 太宰が玉川に入水したのは、梅雨の雨が激しく降る日だった。作者はいとおしむように雨を両の手に受ける。

土も種もひとつの手話で水の月       福田 柾子

 土は指先の土をこすり落とす仕草。種もそれに似ているので一つの仕草で。手話の掛詞か。土と種なので意味深い。

山盛りのキャベツ罪なく笑い合う      藤田 富江

 刻みすぎて山盛りとなったキャベツを見て、人間が笑い合っているのだが、キャベツも笑っているようで面白い。

白い靴一番線は北国へ           栗山 和子

 帰省客を隣のホームから見ているのであろう。「白い靴」とだけ言って切った省略がすばらしい。

バイブルに罪が溢れて短かき夜       市川 唯子

 たしかに聖書にはあまたの罪が書かれている。それを読む人の胸にもあまたのものが去来する。

水脈にのりこんでくる夏の雲        小林 俊子

 激しい流れだったのだろう。そこに写っている雲がその流れに乗り込んできたようだ、と。斬新な写生である。

軍用の道を海へと夏つばめ         片岡 幸子

 戦後が終わっていないことを考えさせる。いや、戦争もまだ。「軍用」一語で現代俳句になった。

海までは届かぬ川を夏燕          河口 俊江

 前の句と似た言葉を使っているが、まったく違う内容。実景を詠んで、不足を感じる心象につなげている。

蛇口より水垂れており十字花        稲垣 恵子

 正統の写生句。「水垂れており」が心象を見せる。

滅びゆく沼をとらえて夕焼ける       渡辺 礼子

 沼が残照をとらえたと言いそうなところを、夕焼けが沼をとらえたと見た。「滅びゆく」が効いている。

麦の秋帯ひとすじに月下の海        平垣恵美子

 夜の麦秋。「帯」は隠喩であろうが、実際の和服とも。字余りが効いている。

イチローを向こうに回す夕端居       高橋 寅彦

 ヤンキーズ戦か。贔屓のイチローも今日ばかりは敵。


21年7月

夜の茂り想像力という凶器          表 ひろ

 確かに想像力は凶器であろう。あれこれ思いめぐらすことで、不安の深みにはまっていく。それがまず自傷の凶器となるのだが、さらにそれが他者への異常な行為に展開する場合もある。恐ろしいことである。「夜の茂り」は分かりやすい。単に溶暗の木々の影のおそろしさを見せるだけでなく、「茂り」が持つ膨らみのイメージが、不安の膨らむ心象に重なるのである。想像力こそが人間のすべての文化の源泉であるが、そうであればこそ、それがよこしまな力を生むこともある。

遠き日の胸のかさぶた蛇の衣         吉田季生

 「遠き日の」という言いだしには甘さがあるが、「胸のかさぶた」から「蛇の衣」への生々しい展開がよい。「かさぶた」は暗喩かと問われれば、具象だと逃げられるところも面白い。私も小学生の時、蛇の衣で母を絶叫させてしまったことがあって、そんなことも思い出されるのである。

鴉飛び陽炎こともなく包む          逆井和夫

 出だしがそっけないのだが、それが妙な効果を生んでいる。こういう詠み方もあったのかと感心した。それこそ「こともなく」詠んでいるのがよいのである。

厄年の口つつしめり更衣           文挟綾子

 ご自身の厄年はとうに過ぎているはずだから、「厄年の」は相手方なのであろう。しかし句としては、自分が厄年であるから慎んだと読んだ方が自然である。「厄年」を、災難の多い年の比喩と読むこともできる。いずれにせよ「更衣」の距離がよい。生活の中のドラマを想起させる。

サーカスの去りし空白夕焼雲         松澤龍一

 「空白」という抽象語の使い方が巧い。ここを具象で詠めと言う人もいるだろうが、そこまで言っては野暮である。ただし設えが巧すぎるので、虚構を感じさせてしまうのが惜しい。俳句も当然虚構であるが、虚構を感じさせないのが虚構であろう。

昭和の日老樹の瘤を愛しては         香取哲郎

 自己愛なのか夫婦愛なのかと思わず勘ぐってしまうが、ここは素直に読んでおきたい。生まれ育った地にずっと暮らしてきた作者なればこその実感がある。子どもの頃からともに育ってきた大樹が庭にあるのである。

覚め際の少し捩れる凌霄花          鈴木郁子

 「凌霄花」が覚め際であるように思えたというのであるが、作者の意識に変化があったことも事実。いや、周囲のどなたかの意識の変化を捉えたのかもしれない。座の文学であってみれば。

ほころびへ知恵のワクチン若葉光       西崎久男

 機知の句であり、理屈があるから、疑問を持つ人も多かろう。しかし俳句にはこういう分野もある。この下五の切れを川柳と呼ぶことは出来ないのである。

 
21年6月

 今月は特に、季語の使い方が気になった。もっと慎重に、あるいはもっと全身で季語を感じて、句を詠んでほしい。
 「軸」は有季定型の句を作り続けている。だがそれは、季語があって五七五ならよいということではない。季語というものが、一度きりの作者の体験と結びついて、一度きりの輝きを見せるように作らなければならない。
 私たちが季語を使うのは、四季の豊かなモンスーン地帯に住んでいるからにほかならない。そこに住んでいる私たちの時間感覚は独特である。私たちにとって時間は、均等に割り振られた一本の軸ではない。過去からずっと一年は螺旋状に廻転し、それが現在に続いている。あるいは、季節ごとの別の時間軸を、私たちは持っている。
 たとえば「桜」と聞けば、五十年前の記憶の桜と、去年見た桜と今年の桜とが一気に近づき、ほとんど同じ場所にイメージされてくる。いや、それどころか、千年近くも前の西行の桜まで同時性を持ってしまう。そして、それらの隙間に、他の季節が入り込んでくることはない。
 時間は一本の軸ではなく、しかも目盛は均等でなく、伸縮自在なものとして、私たちの内部に棲み着いている。時に過去は現在となり、私たちは、過ぎ去った過去と同居することができる。そうした時空で、私たちは、過去とは違う体験の一回性を書き留めようとしているのである。

火も水も弥生の柱誕生日         小島 裕子

 誕生日は毎年同じ季節に巡ってくる。だから人には、誕生日を貫く時間軸がある。生まれてこの方の記憶にあるすべての「弥生」が間近に近づき、自分の一生が見えてくる。「火も水も」のモチーフはキャンドルとワインであろうが、それを「火」と「水」に抽象化したとき、作者は命の源泉を直観する。それらは命を支える「柱」である。またそれは、祭るべき神聖な存在でもある。作者は、「火」と「水」に力をもらい、「火」と「水」として生きてきたことに気づく。八十五回目の誕生日にして初めてたどり着いた悟り。哲学といってもよい。自分が生きてきた理由を知った句である。強い生命力があふれ出ている。

21年5月

起き臥しの皿は汚れて揚雲雀        山崎 政江

 「皿」は、盛る、受ける、飾る、などさまざまに働き、汚れにまみれながら人の生活を潤してくれる。そう、ときには投げられて欠けることも。「皿は汚れて」から作者の慌ただしい生活が見えてくる。「起き臥しの」は日々のということだが、体調が良くないとも。そこまで読めば、この汚された皿は、作者自身に重なって見えてくる。そこに「揚雲雀」である。それは希望であり、あこがれであり、解放なのである。

雪が雨になり透明な父の愛         小島 裕子

 雨を契機に、父の慈愛が「透明」と呼ぶべきものだったことに気づく。それ以上は他人には窺い知れぬ世界。伝わらないと言ってしまえばそれまでだが、それは意味内容の話であって、気持ちとか感性とか、意味のほかにも伝わってくるものはいくらでもある。雨というものに、透明というプラスの価値を見いだしたのも発見である。

鶯の囀り聖者になって聴く         文挟 綾子

 悔いとか恨み言とか、そんなことをすべて忘れさせてくれたのが鴬の声。俗世の迷いをうち捨てた作者は、その刹那、聖者となったというのである。滑稽なのだが大まじめ。そこが面白い。俳句では、普通「鶯の囀」とまでは言わない。「鶯」とだけ言えば済むことだからである。だからこそ「鶯の囀」とまで言った気持ちが伝わってくる。

春寒の白球曲るべく曲る          荒木 洋子

 さて、これが野球かゴルフかテニスかは不明。そこは読者に任された訳なので、各自、勝手に読むしかない。私は少年野球の投手の投げたボールと。寒い春先は、変化球のコントロールもままならないのだが、それが巧くいったのである。深読みをすれば、親の思い通りに育っていない少年を、端から応援しているようでもある。

けものらも乳張るころか春の月       和井田なを

 「も」とあるからには、人間の乳も張っているのであろう。子育ての季節をきちんととらえているので、単なる滑稽に終わっていない。

導火線秘めて春泥抜け切れず        小柳 俊次

 心象である。気持ちとしてよく理解できる。「導火線」も斬新。ただ「秘めて」で「導火線」が抽象になってしまい、実感が薄くなったのが惜しまれる。

うぐいすの声が背筋を下りてくる      岡田 治子

 背後で急に鶯が啼いたときの感覚をよくとらえている。それだけなのだが見事。

啓蟄や鍬に楔を打ち込める         香取 哲郎

 鍬の刃が抜けないように打ち込んだ小さな楔のことである。目の付け所が鋭いのは、生活に裏打ちされたことだからである。

茶色い少年春風がきな臭い         松澤 龍一

 野焼の句。だが、それを隠したために、民族とか戦争とか、そういうところにまで表現が広がっていく。

トロンボーン私のおぼろかき廻す      渡辺 礼子

 なるほどトロンボーンは空間をかき回して吹く。音が心に響いたということと、吹いている姿とがともに「かき廻す」なのである。

幾重にも月を集める歌声よ         岡野 裕行

 合唱なのであろう。いくつもの声部がつぎつぎに重なっり合って、それが月夜に響きわたる。その声が聞こえてくるようだ。他の句から察するに、お子さんが生まれたのであろうか。慶祝。作者はまだ三十代である。

21年4月

解体のビル立春に曲がる錆         堺  房男

 解体の現場に折れ曲がった部材があって、それが錆びていたというのである。「立春」という前向きな季語に「錆」の取り合わせが面白いのだが、そればかりでなく、「曲がる錆」という言い回しが、その奥の心の屈折を見せていて深い。この作者の作り方からすると、この「錆」は当然、心のメタファーである。だがそれにしても、「錆」というものの質感が、この句の命である。質感を伴った具体物によって、心象や抽象を伝えるという方法は俳句の王道である。

待てば来る人ではないが雛飾る       山崎 政江

 もう会えない人のために雛を飾るとも読めるが、作者の気持ちとしては「が」で切れるのであろう。雛を飾って、ああ、あの人にはもう見せられないと思ったのである。昨年あたりから、政江俳句が変化している。二物衝撃を軸とした広がりから、微妙な言い回しへと方向が転換しているように感じる。最初のうちは切れが弱くなったように思っていたが、そこに別の趣が滲み出るようになってきた。

春いくたび風の岬へ開く地図        表  ひろ

 岬の先には茫洋と海が開ける。だが、そこに道はない。にもかかわらず、人はそこに行こうと、何度も地図を開く。人には、果てというものを体験したい欲望があるのかもしれない。

愛憎の答えは希望鳥曇           倉持 紀子

 難しい暮らしの中に、わずかに解決への糸口が見えてきた。読んでいる方もほっとする。「希望」の意外性に深さがある。「鳥曇」という季語の意味をよくよく考えての句であることも嬉しい。

一日に太陽ひとつ枯野原          杉山真佐子

 理屈で言えば当たり前のことだが、改めて言われると納得してしまうということがある。これもそのひとつ。再認識ということであるが、「一日に」が利いていて、大景なのにリアリティーがある。

手を入れるほど古くなり冬の薔薇      荒木 洋子

 手を入れなければならないほど古びたとも読めるが、手を入れれば入れるほど古びるとも読める。むろん後者で読む。古くなることを単純に悪いことと読んではなるまい。

節分かと咳いているホームレス       小島 裕子

 明日は春だというのに、ホームレスその人は、冬のまっただ中にいる。二つの季語の違いでそのことを巧く表している。季重ねの句はこのように作りたい。無駄な季重ねは厳禁。


21年3月

迷走の楔となりぬ牡丹の芽         岡田 治子

 「迷走」は自身のこと。相変わらずの多忙で、走り回っても無駄が多いという自覚である。解決のつかない問題も多いのであろう。だが、「牡丹の芽」に出会った瞬間、作者の心に響くものがあり、地に足が着いて自分を取り戻したというのである。「楔」一語でそれを言い表してしまうのが俳句。そういう一語が心に浮かぶのが才能。説明を避け、一語にすべてを語らせる手法に学びたい。

秒針が止まり寒さが寄ってくる       小島 裕子

 さりげない散文的な構文なのだが、内容としての切れが見事である。「秒針が止まり」という出来事は、日常ではそう起こらないことなので、そこが非日常への入り口になっている。後段の「寒さが寄ってくる」は日常のことだが、前段とのつながりが心理的なものなので、そこにまた不思議さが生まれる。口語でこうした切れを作り出すことは決して簡単なことではない。

背信の色鳥雨を激しくす          山崎 政江

 秋になると目に付く小鳥が増える。それが色鳥。海を渡って来るものも多い。色々いるから色鳥なのである。羽色の目立つ鳥を指すと書いている歳時記もあるが、それはあくまで派生した意味である。掲句の「色鳥」は、多くの中の一羽。集団に背を向け、孤高の立ち姿を見せている。それを「背信」と見たのは作者の主観。そこに作者の心情がかいま見えるから面白い。

冬苺笑くぼの系図太古まで         平垣恵美子

 苺のツブツブの窪みを笑窪と見たのだが、そこでふと、ご先祖も自分と同じ笑窪を持っていたに違いないと気づく。ものの本に寄れば、両親の笑窪は四分の三の子に遺伝し、片親の笑窪は二分の一の子に遺伝するそうである。ただし、笑窪のない両親からも一割ほどは笑窪の子が生まれるというから、笑窪が太古まで遡るかどうか定かではない。だが、作者はそれを信じた。苺の赤い魔力によって。

白鳥になりきれようか空の張り       鈴木 郁子

 冬になって、幼い白鳥の羽も白くなり、成鳥の仲間入りをする。いよいよ空へ飛び発つ日も近い。立派な白鳥となって、空を飛び回れるようになるだろうか。白鳥の生育を半年間見守ってきた人間たちは、カメラを片手に、期待と心配の交差した気持ちで、湖に通ってくる。空も、張りつめた空気でその飛翔を待っている。ちなみに、これはオオハクチョウではない。オオハクチョウは、シベリアなどで成鳥となり、冬になると日本に渡ってくる。日本で育つのは、コハクチョウやコブハクチョウである。

輪郭に乱れの見えず冬の雲         斉藤 良夫

 雲の形を決める要因は複雑だろうが、輪郭は風の問題であろう。だがこの雲は、たとえ上空に烈風が吹き荒れていたとしても乱れを見せない。そういう雲に違いないのである。人間も、そんな「輪郭」を手に入れられたら、かなりの人格者である。人間の輪郭とは、規律ある内面から滲み出る行動規範のようなものであろう。それが四角四面ではつまらない。この雲のように、やわらかく、しかも乱れない輪郭を身につけたいものだと思う。

地に届くまで雪虫という昏さ        山崎 文子

 白い綿のような分泌物を身にまとい、空中を漂うワタムシの仲間が雪虫。雪のようでもあり、しかも降雪の直前に飛び始めるのでその名がある。幻想的な生き物であるが、作者は、夕暮れに空の光の影としてそれを見たのである。「地に届くまで」は、すべての生き物に言えること。命と同義である。

病棟に見知らぬ通路冬の雨         市川 唯子

 只事の作りに見せながら、そこに非日常への入り口を見出している。奇を衒わぬ写生句が想像力の世界へ読者を導く。これからの俳句のひとつの生き方と思う。

凧糸の少したりない芽木の宙        小柳 俊次

 足りないのは糸の長さ。もっと糸を伸ばし、凧をのびのびと遊ばせたいのだが。作者の境涯とも。「凧」も「芽木」も春季だが、この場合、この二つを言わなければ言いたいことが言えないわけであるから問題はない。季重なりがいけないというルールはない。季語と知らずに使っていたり、含まれるものを重ねていたり、省略できるものをしていないことが問題なのである。ただし現代俳句では、よほど気をつけないと、季重なりは冗長になる。

悴んだえにし手操って指相撲      たなかもんごる

 この作者にしては、ずいぶん古風な詠みぶりをしたものである。「えにし」とはっきり言ってしまうだけでも月並調なのに、さらに「手繰って」と続けて慣用句にしてしまった。通常ならば、これでアウトである。ところが上五の季語が「えにし」と意味的に結びつかず、異化表現として緊張を作り出している。さらにそれが下五の「指」と妙に響き合い、何とか実感を伴った解決に持ち込まれている。こうした月並の技法は、現代俳句の中では、ひとつの洒落っ気として残していってよいのではないかと考えている。むろんベタな月並調では困るが、、

21年2月

冬銀河時計をみんな狂わせる        小西 竜遊

 心理的な時間は人によって違う。それを標準時に合わせようとするからストレスがたまる。時計をみんな狂わせられれば、標準時など存在しなくなる。それぞれが自分の時間を生きればよい世界になる。ある意味でそれは、理想社会である。
 しかし近代社会は、人を標準時に合わせようとする。山頭火や放哉は、そういう生き方が出来なかった。自分のペースでしか生きられなかった。その歪みから、彼らの文学は生まれた。文学というのは、精神の、社会の規格からはずれた部分から生まれ出る。それは決して敗北の精神ではない。社会状況を相対化し、その限界を見破り、さらなる理想社会に人を導くヒントとなる。だから山頭火も放哉も、いまだに人々に読み継がれている。
 作者もまた標準時という社会の枠組みと戦いながら生きている。長い勤めの中で、作者の身体はほとんど飼い慣らされてきたのであろう。しかしその身体は、自分本来の時間を失ってはいなかった。自分の時間を取り戻そうとして、彼の身体は悲鳴を上げる。思えば私もそうであったが、おそらくそれは弱さではない。本来の身体性を取り戻そうとする、回復への胎動なのである。
 内面に流れる時間は、人によって異なる。それを比較することなどできない。例えば年齢というものにしても、ある人の九十歳が、ほかの人の八十歳より長かったかどうかは、誰にも分からない。私の五十九歳が、子規の三十五歳や、芭蕉の五十歳より長いとはどうしても信じられない。
 掲句は、私に、今述べたような時間論をもたらしてくれた。それこそが文学である。むろん人との約束時間は守らねばならぬが、しかし自分には自分の時間があることを、肝に銘じて生きていこうと思う。
 
逃亡者めく極月の車夫といて       木之下みゆき

 観光地での句と思うが、それにしてはよく掘り下げたものである。樋口一葉の「十三夜」を下に敷き、それを少しずらして独自の世界を作り出した。別に作者が何をしたわけではない。ただ逃亡者めいたと言っただけ。それだけで文学にしてしまったところが、一葉に通うところがある。
 「十三夜」は、決心をして実家に帰った不遇の若妻が、父に説得されて嫁ぎ先に戻るというだけの話である。その道で出会う車夫が、幼なじみで、ほのかに心を通わせたこともある男。その後の展開は何もない。その余情だけで心に残る作品にしてしまうのだから、一葉もすごいし、それを名作と呼ばれる舞台に仕立てた久保田万太郎もすごい。しかしこの句も、それと同じようにすごい。
 ずらしたのは「極月」。これによって新派の無難な叙情から抜け出て、別の世界を作り出している。作家としての力量を感じる句である。

冬の鳴門落差にもがく渦がある       新居 三和

 写生というが、そこに何を見るかが重要。自分にしか見えないものを見、言えないことを言うから文学になる。そういう意味では写生ほど主観的な方法はないし、写生という方法でいくらでも現代俳句を作ることが出来る。この句も、そうした意味での成功作の一つ。「落差にもがく」は、まったく渦の写生であって、それ以外の何ものでもない。実際、そのとおりのことなのである。けれどそこには、みごとに人の心が描かれている。そこがすごい。軸の主張にある「有季定型を愛し、これを超克する」というのは、まさにこういう方向性をいうのである。

喋らねば睫毛まばたく年の暮        和田 三枝

 言いたいことがあるのに、それを言えない事情があるから、ストレスがたまって、瞬きが増える。よくある光景であるが、よくそれに気づいて、俳句の言葉にしたものである。口の代わりに目が喋っているというわけ。そこに俳味と呼ばれるユーモアが漂う。古風な言い回しで、古風な俳味のある句だが、決して古くさくはない。不思議な味のある句である。

21年1月

喪失のいたみを分けるおでん鍋       安田 政子

 日本文化のふるまいが身に染みわたっている。俳句についても技量は十分。ただそれが、自分を過去の俳句に導いてしまうこともある。例えば、ゴッホになると言った棟方志功が捨てたものは何だったのか。そこにあったはずの「喪失のいたみ」こそが、人を真の作家へと導くだろう。掲句、「おでん鍋」の軽さが良い。深さと深刻さは別のものだ。

遠景の冬を二つに王の谿          諸藤留美子

 異化表現の可能性を信じ、真似を拒んで、言葉同士の新しいぶつかり合いを試し続けてきた人が、今、ようやく俳句の真正面にたどり着いた。句会や大会で認められる機会も多くなった。いよいよこれからが正念場である。

東京に疲れた木から葉を落す        興津 恭子

 長く千葉県現代俳句協会の幹事を務めているのに、いわゆる現俳らしさに染まらない人である。浅草育ちの感性が、エセ都会風な俳句を拒絶するのであろう。見栄やはったりのない作風はすばらしいが、目立たない句柄で損をしているところもある。掲句のような新しさを追求してほしい。

因縁をたどりて菊を持たされる       片岡 幸子

 考えさせる句である。葬儀の供花であろう。親しくつきあった人ではなさそうだ。ということで、だんだん分かってくる。俳句には、このように考えれば分かるという奥行きが必要だ。平板な句の多かった人だが、こうした句が増えてくるとレベルは確実に一段上がる。

冬の蝶地平線だけ見えている        鯉沼 幸子

 ねばり強い人である。大利根町から野田のけやき句会に通い続け、今年は支部長まで務めた。いろいろ考える人だけに、句柄の振れ幅も大きいが、一本通った芯もある。掲句のような省略が、この人の句の生命線である。

パソコンの十一月のうすぼこり       西崎 久男

 凡庸な写生が深さを生み出すところに俳句の面白さがある。「十一月」の半端さが、読者に一年を振り返らせるところがすごい。「うすぼこり」のとぼけた味も、人生の悲哀を感じさせる。入会以前の俳歴が長いのであろう。葭の会の男性陣に流れる俳味の伝統を受け継ぐ人の登場を祝したい。

忘却の海から上がる背美鯨(せみくじら)    平岡 育也

 大変な読書家で、作品も安定してきたが、豊富な知識が、ときに俳句の邪魔をしている。眼前の景に知識がつきまとうのである。掲句は、捕鯨が消えつつある海を「忘却の海」と表現。こうした直観的なとらえこそが望ましい。

新米の湯気シュルシュルと給料日      清野 敦史

 入会して間もないが、頭角を現してきた。退職を前にしての俳句への立志は貴重。作家となるための時間は十分に残されている。今後の更なる精進に期待したい。かつて草間時彦は「サラリーマン俳句」という一領域を作り上げたが、それを超える世界を作り上げてほしい。

20年12月


鉄砲はいつまで孤独鳥わたる        市川 唯子


 最初のうちは、詩人としての発想が新奇な俳句を生み出すというほどのことだったのだが、最近は、俳句の特性を踏まえたうえで独創を生み出そうとする姿勢が明確。俳句でなくてはできないことをやり出したということである。掲句も俳句らしい手法でまとめている。「鳥わたる」が付きすぎだという人がいるかもしれないが、分かりにくくすればよいというものではない。読み方次第で、いくらでも深まり、広がる句になっている。この「鉄砲」に何を思うかは読者に任されている。単に使われなくなった鉄砲を考えてもよいし、戦争を夢想している人物を思ってもよい。あるいは、戦を始めてしまった人や、軍隊そのものを考えてもよい。いずれにしても、鉄砲は孤独だと作者は言っている。なるほどそうだと思い当たることは多い。

ポケットにひと夜の夢の籾ひとつ      香取 哲郎

 私が十代のころから軸で活躍。叙情詩をベースにした文学性を漂わせながら高点をも狙うという構えは、実は戦後俳句文化のもっとも正統的な位置取りだったのではなかろうか。文学性を隠れ蓑に点取を否定し、その結果、斬新への努力を怠って月並に堕していく人は多い。哲郎俳句が今も輝きを失わないのは、基底に叙情を置きながらも、斬新へのあくなき探求心を持ち続けているからである。

霧襖漁師たけぞう病みあがり        今泉 良一

 まだ数年の句歴だが、今、軸でもっとも人間味というものを描き出せる人の一人ではないか。出来不出来はあるにせよ、今の世にこうした骨太のヒューマニズムは貴重。俳句作家への道を本気で歩み出してほしい。

唐辛子平らに干して俗世界         利根 美代

 このところ、あちこちの大会での活躍が目立つ。いくつかの病苦と闘いながらの暮らしを続けているのだが、そうしたことを思わせない叙情と知性のひらめきを見せている。掲句は「平らに干して」という写生と「俗世界」という知性の組み合わせが新しい世界を生み出している。

曖昧な稿にルビふる星月夜         増田 元子

 長い句歴だが、一貫して確固とした俳句形式のなかに、団塊世代らしい軽みを詠むことを貫き通している。生活の一場面を切り取るというスタンスを崩さないため、ときに只言(ただごと)に陥ることもあるが、正攻法の詠みぶりには力強さがあり、さまざまな俳句大会に数々の実績を残してきた。掲句もそうだが、日常を詠みながら、言葉の格調を崩さないところに、この作家の良さがある。

飽食の爪折れ易しいわし雲         山本 敦子

 俳句がよく分かっている人で、選句に感心させられることも多い。知識が多い分、俳句にぶれがあって、技巧が過ぎたり只言になったりもするのだが、掲句のように事実に根を置いて詠んだ結果、言葉が重層的になったという句は評価できる。重層的にしようと意図すると、技巧が見えすぎてしまうことが多いのである。

歳月は泡の眼をした銀やんま        山片カンナ

 ドイツから帰国して復帰。俳句への熱意をいっそう高めている。音楽家として研ぎ澄まされた感性が、ときに伝達性を弱めることもあったが、掲句は多くの人に理解できるところに落ち着いた。「泡の眼をした」にイメージが広がる。

銀杏を落として汽笛鳴り響く        丸山 蔦恵

 初めから感性の磨かれた人だったが、経験とともにそれが俳句という形式に馴染んできた。前段から後段への展開が抜群。それを「て」で結んだのも良い。

そこに置くだけのバイブル碇星       本田 真木

 実体験に根付いた落ち着いた詠みぶりのなかに、徳島支部独特の諧謔の精神を響かせている。現在徳島支部には、月に一度、電子メールで添削を行っているが、支部長としてその取りまとめの労もとって頂いている。

休暇明け複眼という不統一         坂内 哲雄

 本誌「初心者の手帖」の著者。視点を変えてものの見方を新しくしようとする意識が強すぎ、理詰めの句を生むことが多いのだが、掲句はそうした自分自身を詠んだようでもあり、面白い。自己対象化は重要。散文性をいかに排するかが課題。

20年11月

青春の言葉が形見天の川          小島 裕子

 言いたいことを少しずらす。そこにこの作家の妙味が生まれる。迷いのない句作りである。まず言いたいことがあるということが重要。言いたいこともないのに、俳句を量産するやからが多すぎる。

終戦の歩兵聯隊まだ匍匐          堺  房男

 軸の創生期から活躍していたが、最近の句はなかなかに晦渋である。古風な漢語を多用し、言葉をひねる。読む方は大変だが、独自であることは極めて重要であろう。掲句も難解だが、聞いてみれば事実そのままであって、終戦の詔勅があった時間には、まだそれと知らされず匍匐前進の最中だったのだという。しかしこの「まだ匍匐」は、そうした事実を超越し、日本という国の戦後の姿をみごとに言い当てているのではないか。たしかに日本には、匍匐し続けてきたようなところがある。戦後という時代を、匍匐する感覚で生き延びてきた人も多かろう。戦後どころか、戦争もまだ終わっていないのかもしれない。傑作である。

秋の野に紡ぐ神話の第二章         荒木 洋子

 はじめから独自の作風を追求していた風がある。凱夫主宰からも、少しは理解されるとか、点を取るとかを考えたらどうだと言われたことがあるらしい。たしかにだれも理解できない句では困るが、少数にしても理解者がいるのならそれでよい。身辺の出来事を切り取って詠っているのだが、状況を説明していないから分かりにくい。しかし、俳句とは、もともとそういうものであろう。読者もまた個人的に想像力を広げていけばよいのである。

写真みな直立不動盆の月          米山恵里子

 句歴は浅いが、「切れ」を作れる作家である。いろいろ試しているようで、まだ不安定だが、今月は良かった。「盆の月」というのだから、家族の昔の写真なのである。最後の下五でそれを分からせているのが巧い。

火のような電話が切れて夜の長し      河口 俊江 

 数々の受賞歴を持つ作家である。俳句が巧いというのはこの人のようなことをいうのだろう。だが、巧さはすぐに人に真似され、古びてしまう。作家は、常に前進し続けなければならない。そこに、先頭に立とうとするひとの苦しさがある。掲句は、技巧や構成を捨てて、実感に立ち戻った感のある作品。そこが好ましかった。「夜の長し」という季語がよい。読者も、作者の感じた静寂の中にぽんと投げ出される。

こおろぎの坩堝へ流す今日のこと      片岡 幸子

 軸の中では新参だった木曜会も、いつの間にか中堅を担う支部となった。明日の軸を背負う支部の一つに違いないのだが、なかなかそこまでの覚悟が見えてこない。感覚の新しさを持っているのに、練り上げの弱さが災いしているのである。しかし、今年になって、力のある投句が増えはじめた。掲句、坩堝という言葉を比喩的に使うのはいささか古めかしいが、「こおろぎの坩堝」は面白いと思った。「今日のこと」と率直に言ったのも嫌みがなくてよい。

濁流に行方がありぬ秋の雲         福島由紀恵

 すでに作風を確立した作家であるが、常に新しい対象と、新しい表現を模索し続けている。その熱情には敬服するほかない。この句には、「気づき」がある。濁流に行方があるのは当然だが、だれもそのことに気づかない。そこを指摘すると、佳句になるのである。

ジーンズに腰骨入れる夏の朝        山本 富枝

 自身の生き様を率直に軽々と詠っている。何という自由な精神であろう。長い俳歴、長い人生を経て、こうした境地にたどり着くというのはすばらしいことである。八十歳も半ばとなれば、自分自身が常識であり、世界そのものになるのではないかと思う。もう何の制約や常識にもとらわれる必要はない。俳句自由、ただそれだけに生きていただきたい。

帰燕には淡い期待もある海峡        平尾礼噫子

 人生の起伏から生まれ落ちる言葉を、美化することなく書き付けている。この人が伝えたいものは、「気持ち」である。期待が「淡い」ものであることを本人は心得ている。しかしそれでもなお何かを期待する心があることを分かって欲しいと言っているのである。

遠雷や髪軽快に刈られゆく         上野かづ子

 俳歴は五年ほどだと記憶するが、すでに俳句のコツのようなものを掴んだようである。日常の何と言うこともない光景が、「遠雷」に気づくことによって別の意味を持ってくる。こうした言葉と言葉の響き合いが、俳句の根源である。

運命と言いつつ秋の風となる        岡田芙美子

 身辺にさまざまのことが起き、ここ数年を苦労のうちに暮らしてきたようだが、そうしたことへの思いが、省略された表現によって、深く伝わってくる。状況を受け入れている心の大きさが、読むものの心の救いともなっている。

雑念として敬老の日が過ぎる        山崎 文子

 複雑な思考を経ての句である。毎日が「敬老の日」であるべきなのだが、そうした日が定められていると、何か期待してしまったりする。その心を雑念と言ったのであろう。

20年10月 

 切れの強い句は、読み手に刺激と広がりをもたらすが、そうしたことを期待していない読み手にとっては、それはただのストレスでしかない。俳句もまた相手によりけりということである。
 何もしていない月並に見えて、実は何かやっているという句が作れれば、それも立派な仕事ぶりということになる。素人も読めたつもりになり、プロも唸るということになれば名人芸であろう。
 別に俳句は名人芸でなくともよい。いや、その前に、俳句は芸ではないと怒る人もいるだろう。だが、幅広い層の読者に、それぞれの読みを保証できるとすれば、それは作品としてひとつの大きな価値を持っているのである。
 句会で学ぶのは、その辺りの間合いであろう。より多くの人に採ってもらえる句というのは、読者それぞれのレベルで、それぞれに読める句なのである。
 少数の文学マニアにだけ理解できる句というのも面白いし、俳句オタクに語りかけるのもよいが、そのとき多くの読者を切り捨てているという事実も考えておかなければならない。
 私は、少数の理解者だけを相手にするような句が大好きだが、名人芸も悪くないと思っている。凡庸な只言(ただごと)に見せかけるというのも簡単なことではない。今月は少しその辺りを意識して選句してみた。

落ち着いた分の悲しみ花木槿        西宮はるゑ

 だれもが共感できる感情である。身内が亡くなって、しばらくしてから襲ってくる虚脱感。「はなむくげ」という響きが柔らかく内向的で、中七までの虚脱感を、防波堤のように押しとどめている。「悲しみ」を現代俳句風に処理したくなるが、それをしていないところに、誰でも理解できるというこの句の良さが保証されている。作者の祖父は旧派の宗匠だったというが、その血脈を守りながら、作者は現代生活の機微を読み続ける。類型にさえ陥らなければ、それで良いのである。

励ましの絵手紙爛る終戦忌         小島 裕子

 「爛(ただ)る」は強烈である。この作者は、時としてものすごいことを平然と言ってのける。神経が太いのである。それが雑に見えるときもあるが、人の心に食い込んでくる切れを作り出すことも多い。この句にも忘れがたいインパクトがある。戦時の絵手紙と読む人が多いだろう。作者もそれで作ったと思われる。しかし、この絵手紙は、戦後のものであってもよい。背景に、その苦労より、もっと大きかった苦労が見えているのである。

ど忘れのさびしい石を蹴る炎暑       和井田なを

 上五の切れにも、「さびしい石」にもひねりがあるのだが、分かりやすく感じるのは、「さびしい」と言い、「蹴る」まで言っているからである。そこを言わなくなれば、表現の質は高まるだろうが、読者が増えるとは限らない。その辺りが難しいところ。生活実感からスタートした人であるから、自分の感性を独自性にまで高めていけばいいと思うのだが、今は、ある気分を俳句で表現することに熱心である。そのために句がかなり内向的になっている。もっと、対象に向かって感性を切り込んでいく句も作ってみたらどうだろう。

終戦忌形あるもの影に添う         平垣恵美子

 軸以前にも長いキャリアがあって、ものごとを俳句らしくまとめる手腕はすでに十分蓄積している。それを崩し、一歩踏み出そうとしたところで、創作の難しさに突き当たっているようだが、大きく変わる必要はない。ほんの少しの変化が重要。まさにこの句のようであれば良いのである。「終戦忌」に「影」は付きものだから類型かと思ってしまうが、よく読めばまったくそうではない。逆を言っているのである。その逆の中に真実が見えてくる。ここで言う「影」とは、例えば死者であり、罪であり、悔恨である。日本の戦後は、たしかに過去という名の影に、歩みの方向を定められてきた。若くして別離を経験した作者ならではの人生観かと思う。平易に見えて深い。傑作と思う。

減反のところどころに稲黄ばむ       野本 ちよ

 支部句会を去った作者だが、まだまだ健吟。奇を衒わず、類型に陥らず、叙情と批判精神とを併せ持って句作を続けている。「ところどころに稲黄ばむ」という抑えた写生で、「減反」への思いを言い尽くした。これが俳句である。初心者は、まずこういう句に学んで欲しい。

涼月の裸像シャンソンは別れの詩      水谷 田鶴

 この作者には珍しいほど見事に切った二句一章である。このところ淡々と身辺を詠むことの多かった作者なので少し驚いたが、これも自身が支部を移ったときのことであるかもしれない。とすれば「裸像」は飾らない自身の影であろう。俳句はこれでも伝わる。初心者は、早くそのことに気づいてほしい。なお、「涼月」は陰暦七月の異称。文月と同じことで、今の立秋ごろから始まる。涼しい月のことではないから注意してほしい。

一夜酒どこでブルース覚えたの       豊田 いと

 このブルースは唄ではない。ダンスである。当たり前のようにブルースのステップを踏む友には、まだ自分の知らない過去があるらしい。そのことに気づき、作者は驚いたのである。「一夜酒」は、季語の斡旋としてはいささか俗で付きすぎだが、それが分かりやすさを作り出している。俳句の面白さを存分に分からせてくれる句である。

黙読の僧侶へ蝉が翅磨く          小柳 俊次

 「黙読の僧侶」という気づきがまずすばらしい。イメージを膨らませる力がある。省略も利いていて、それだけで十分俳句になっている。したがって「磨く」まで言うのはやり過ぎと思う。だが、「黙読の僧侶」の良さを殺すまでには行っていない。時に技巧は、着想の良さを壊してしまうことがある。俳句はやりすぎてはいけない。言い過ぎてもいけない。

20年9月

くちなしや己れ濃くする夜の壁       高木きみ子

 常に安定した力を発揮。経験も力量も豊富なだけに、ときに技巧が勝ってしまう場合もないではないが、実感という原点からはずれずに作句しているので、大きな間違いはない。掲句は、「夜の壁」という具象をしっかりと詠み、そこに自己の状況を暗示するという手法。写生句でありながら、現代俳句の到達した領域に踏み込んでいる。獲得した技量に安住せず、常に新しい句材を探し、さらなる句境を目差す姿勢には敬服のほかない。

裏葉草過去の名前をすらすらと       稲垣 恵子

 裏葉草は風知草の別名。葉の裏の方が、表より緑が濃いための名である。「過去の名前をすらすらと」言ったのは自分ではなく、そういう人に出会ったということであろう。「裏葉草」という名からは、そういうことのできる人には見えなかった、というニュアンスも伝わってくる。以前より、さらに自然体になったこの作者の、その自然なもの言いが成功した句である。自然体は、ときに只言(ただごと・当たり前の句)を生み、独善を呼び込む。しかし、一句に好ましい切れを作れるのであれば、自然体ほど強い作句態度はない。

みんみんの傘下で未来練っている      岡田 治子

 この人は、思いつく表現のほとんどが俳句になっているのではないか。とにかく句作りが早い。長い作句経験を思えば当然なのかもしれないが、瞬間的にひらめく言い回しに切れがあり、異化表現(普通とは違った言い回し)がある。掲句は、その異化表現が少し目立ちすぎるかもしれない。「みんみんの傘下」、「未来練っている」というふたつの異化表現が見得を切っている。その分、評価がマイナスになったが、意欲作であることは間違いない。

抜き足の闇へほうたる忍び寄る       小林 俊子

 句に使用する語彙が、急に広がってきた。以前は、自分の好きな言葉を使いすぎ、それが限界を作っていた。また、言い過ぎて、説明臭くなることも多かった。しかし、この句では、そうした弱点が克服されている。「抜き足の闇」という省略表現はみごと。前のみんみんの句と同様、目立ちすぎるかもしれないが、これも意欲作である。上五では切らずに一気に読みたい。

介護者の指は水中花の湿り         加倉井允子

 微妙なことを言っている。「水中花の湿り」が、良いのか悪いのかと言えば、両面ある。人工の美である水中花の両義性をうまく使って、なまなましい感覚を伝えている。豊富な知識や鋭い知性というものは、ときに俳句の邪魔をすることがある。俳句はぼんやり作った方がいいという人もいる。だが、この作者は、鋭さに賭ける。そういう俳句があってもいい。そういう作家もいなくてはならない。

夏の朝命はじめる深呼吸         ひねのひかる

 無理な表現を通そうとする人である。分かる人だけにインパクトを与えればよいと考えているのであろう。この「命はじめる」も、普通に考えればかなり無理な表現である。だが、何か伝わってくる実感がある。年齢を重ねた人が言うからこその表現。生きることへの決意と意欲が響いてくる。平板に思える「夏の朝」もかなり利いている。今月、一番好きな句であった。

遠雷や抱人形に帯しめて          倉持 紀子

 生活の一齣をそのまま詠むと、不思議な取り合わせになることがある。これも実に不思議な句であるが、作者に聞けば、だってそうだったのだ、ということになるのだろう。不安と愛着と、寂しさと愛しさと、さまざまな文学的要素に満ちた句である。言いたいことはよくわからないが、確かにこれは文学であると確信させるものがある。この作者には、ある水準以下の句というのがほとんどない。着実に自分の世界を構築していく。一句一句に真摯に向かいあってい姿が見えてくる。

さくらんぼ揺れて単身赴任の日       文挟 綾子

 俳句の巧い人というのはいるものだ。この人もその一人である。あっさり言ってしまうのだが、よく読むと深い。言葉どうしが、予想以上の関わりを作り合っている。「揺れる」という言葉を安易に使う人が多いが、この「揺れて」は巧い。説明ではなく、情景描写になっている。

親燕子燕ケイタイ依存症          福田 柾子

 思索と感覚、叙情とユーモアがほどよいところで折り合う人である。いつも安心して読める。掲句は名詞ばかりの句だが、よく分かる。季語の斡旋も抜群。ただ、親子の両方を言ったのは、巧すぎたかも知れない。そこが面白いのではあるけれども。

願いごと絞りきれずに星まつり       栗山 和子

 中七で巧く切れているのだが、その切れがやや弱い。それだけによく分かる佳句となったのだが、少しもの足りない。このレベルだと類句がかなり出てくる可能性がある。俳句らしい表現を身につけて、安定した作品を生み出しているのだから、もう少し冒険もして、現代俳句というものの意味を勉強してみるといいと思う。

20年8月

雨の十薬暗号にみちている         山崎 政江

 不規則に並んだ濡れそぼる白い十字を、作者は記号の並びと見た。さらに、そこに誰かが仕掛けた謎があると感じたところにこの句の独自性が生まれている。下五は、考え出したことではなく、感じ取った結論である。そこが重要。たしかに景色には、無数の意味が秘められていよう。二段に切れているが、一句一章の作りである。
 今年になって山崎政江は、さらに新たな境地を目指しているようにみえる。家庭の状況も大きく変化した中で、何を素材にし、何を深めていくのか。評価しにくい句が増えているのだが、志の方向は間違っていない。

心太上手に突いて喋り出す         倉岡 けい

 この句も内容的には一句一章なのだが、中七の切れが効いていて、飛躍が屈折を生みだしている。軽く読めば、やや緊張して心太を突いていた人が、うまくできてほっとしたということである。しかし、その背景には、言いにくいことを言うための時間を作った大人の存在も見えてくる。そこが面白い。「それでね、今日あんたを呼んだのは、実はね・・・」ということである。
 倉岡けいの弱点は、言い回しが慣用句に流れるところにある。そのために、せっかくの着眼が、当たり前のことになってしまったりする。だが、生活の中の一瞬の事象を俳句的にとらえる才能は抜群である。一句の中の、このような屈折を期待する。

時の日の道徳のない時間割         野口 京子

 七句とも勢いを感じた。理屈で考えてしまう癖は相変わらずだが、そこに勢いが出てきたので、理屈が陰を潜めている。俳句で大切なのは、全身の感覚で状況をつかみとることである。生命力と言ってもよい。理屈には理屈の面白さがあるが、しかし時として理屈は生命力を弱めてしまう。
 この句は、理屈の一歩手前で言い止まっている。だからどうだと言わなかったのがよい。その結果、読者が考える余地が山のように残されるのである。

夏来たる振子のような暮しにも       柴田 澄子

 境涯句を読み続けているが、一方で技巧派でもある。何が俳句的かをよく知っている人で、だから選句眼も良い。だからこそ、自分の技巧という枠を打ち破る必要がある。「振子のような暮し」には、技巧を超えた感覚のとらえがある。そこが重要である。巧さには過去しかない。下手には未来がある。この句もまだ巧すぎる。下手に作ることも重要だ。

老鶯や古事記の神はまがまがし      木之下みゆき

 方法にも対象にも定まった枠がない。いいと思ったことには必ず手を付ける。そこが問題なのであるが、不思議なことに、何をやってもこの人らしさが残る。それが才能なのであろう。どう喋っても、木之下みゆきの語り口になる。それで十分なのだが、作家として、俳句という大きな世界のどの部分を受け持つかということをもう少し考えてもよいのではないかと思う。

紫陽花を覗いて遠い山崩れ         市川 唯子

 詩の世界から、ぐんぐんと俳句の世界の中心に近づいてきた。俳句らしい省略と俳句らしい言い回しを身につけてきている。ただまだ、そのことに自覚的すぎる。この句も考えて切っているように見えてしまう。それも時間が解決するだろうが、俳句的になることが、才能を削りとってしまうこともある。柴田澄子のところにも書いたが、巧さには過去しかない。それは忘れない方がよい。

仮の世へみどりを殖やす時間の樹      表  ひろ

 変わらないと言えば変わっていない。ずっと自分の言い方というものを模索しているのがよい。思考と感覚が混沌として混じり合っているのもよい。ただ、いわゆる俳句的な切れ感に乏しいところがある。そこが、読者が増えていかない理由かも知れない。どんなに意味を逃げて、屈折させても、全体が説明に見えてしまう弱さがある。この句もその傾向はあるが、成功作と思う。

波の音して森閑とさくらんぼ        加藤れみ子

 突然のように開化した。先月からのことである。ずっと静かに蓄えてきた何かが、水面の高さに至ったのであろう。全部言わなくてもいいということが解ったのかもしれない。

末裔の光が涼し黒棗            荒木 洋子

 このところ対象に心を奪われすぎていたかもしれない。その分、自分の言葉に目が行っていなかったように思う。だが、この句は、対象に心を乗っ取られながら、言葉自体の強さを甦らせている。俳句は、結局は言葉の力である。

父知らぬ父泳ぐなり月下の河        松澤 龍一

 滑稽の地平から、深さの地平にどう位置をすべらせていくのか。どちらかを選ぶ必要はない。二つは、実は同じ地平なのである。それは作者もよく知っていること。あとは経験の量ということだと思う。

ひかがみの一歩を充たす青葉潮       鈴木 郁子

 一年前までは、もっと言葉にどん欲であった。新しい表現や滑稽を絞り出す力に満ちていた。今は、言葉が静謐である。その分、実感から離れない確かさが戻ってきたが、それだけではやや淋しい。体調のこともあるのだろうが、この下五にも、あと少しの力がほしい。

香水の力を借りる小暗がり         渡辺 礼子

 この人も、滑稽の地平から人間の深さを言える人である。自虐的な句も多いが、この句が言っているのは、むしろ生きることへの積極性であろう。下五のセンスが抜群。

20年7月

たましいは孤島のひとつ青嵐        香取 哲郎

 孤島と言っても、地球上にはたくさんある。他の島と距離が離れているだけのこと。たましい同士の、つまり人間同士の距離の遠さをいっているのである。「たましい」とまで言う感覚は、ある年齢に至らねば、ほんとうには分からないものかも知れない。

伸びをする真昼の樹木更衣         岡田 治子

 更衣の気分が、作者の樹木に対する感じ方とうまくつながっている。「真昼の樹木」もうまい。

病みており蝶々のように裏返り       山崎 文子

 この「裏返る」は、仰向けになったのではなく、俯せになったのであろう。直喩も感覚やイメージで詠めば面白い。季語がないなどいう野暮は言うまい。

立ち話集めて海へつばくらめ        倉岡 けい

 倒置法で読む。海に飛んでいった燕が、いましがたのやりとりを、すべて運んでいったような気がしたということ。

どなたかの古墳と蛇の距離におり      平垣恵美子

 「蛇の距離」は、蛇の長さではない。怖さを感じ始める距離である。古墳といういわくありげな存在との微妙な距離。作者は、実はだれの古墳か知っているのかもしれない。

水に還る桜のあとの金時計         山崎 政江

 遺物であろうか。あるいは死者とともに燃された金時計か。「桜」と「金時計」というそれぞれ強いイメージを持つ言葉同士がスパークし、持ち主の存在感を語っている。

はつ夏の胸より落とす白い砂        渡辺 礼子

 精神的であり、かつ肉感的である。砂を落としてさっぱりしたはずなのであるが、そこに寂寥感が残る不思議。

能面の裏は立夏の息づかい         河口 俊江

 事実を言っているのであるが、「裏」一文字が深さを生む。美の背後で、美のために格闘する生命がある。この「立夏」は、美に向かう生命力であろう。

男らの風のはなしを夏つばめ        松澤 龍一

 「を」で切れと省略を作った句。期せずして倉岡さんの句と対をなして見えるが、「夏」と入れて別世界となった。

春眠をこわさぬように卵割る        山本 富枝

 家族の眠りに気を遣うということだが、もっと遠いところにいる人への心配りかも知れない。 

水も草木も限りあり雉子鳴く        荒木 洋子

 前半は少し観念的だが、「雉子鳴く」という季語が、いっきに読者を具象に導く。

片言の夢がふわふわ蟻の列         笈沼 早苗

 お孫さんであろうが、それをいくぶんか遠ざけて言おうという工夫がよい。「蟻の列」が、中七までの甘さを一気に現実に引き戻すしていて、それも好ましい。

近づけば死が見えている白牡丹       小島 裕子

 表層的には、花に近づいたら、すでに傷みの兆候があったということだろうが、そこに終わらぬ言葉の力がある。

へびいちご足跡に水浸みてくる       稲垣 恵子

 平明な写生句だが、「へびいちご」という言葉の響きが、浸みてくる水に恐怖感を与えている。まさに修辞的残像。

幻影の春脱け殻のセミダブル        柴田 澄子

 たしかにそこに居たはずの人がいない。「セミダブル」もまた強烈な質感を持つ言葉である。

五月富士やさしい嘘をついている      飯塚 宣子

 太宰治の「富嶽百景」を踏まえているのだろう。

家中を五月へめくるカレンダー       西宮はるゑ

 忙しい主婦の暮らしも見える。俳句ならではの表現。

草花に埋もれる平和夏に入る        森田 さく

 自然回帰の歌。そうした生き方への自負が感じられる。

ドンキホーテ槍に緑風からませる      坂内 哲雄

 立像があったのであろう。「からませる」が巧い。

雲の峰想像力がわいてくる         柏木  晃

 「わいてくる」と置いたところに言葉の仕掛けがある。

聖火暴走愛国という囀りに         田村 隆雄

 社会事象への眼差しも俳句には重要。

陰々と菜種梅雨かも微熱の眼        白鳥 可桜

 文脈が微妙にくねりながら切れを作っている。

たんぽぽの絮の旋律海に吹く        清野 敦史

 「絮の旋律」に工夫がある。 

20年6月

 今月は上位陣がいささか低調であった。選者にスリルを味わわせてくれる作品を望む。
 近年の入会者の中に、着実に力を伸ばしている人が増えてきた。何ごとも経験。さらに自分をのばすには、できるだけ多くの句会に参加することだ。

目を閉じて朧の中にいる玩具      荒木洋子

 平明な作りだが「朧」から「玩具」への展開が読者の予想を超えていて見事。「目を閉じて」も利いている。目を閉じると、自分自身がその玩具であるような気がしてくる、とも読める。

ラ・マンチャの男遠くて烏麦        山崎 政江

 風車に立ち向かう男を遠くから見ている女性の眼差しである。中七の「て止め」も、この人がやると古くさくならない。口語の「て」だからである。「烏麦」が巧い。

耳の奥から騙されている五月三日      鈴木 郁子

 何かを吹き込まれ、心底信じていたのである。憲法記念日であるからには、日常の些事ではなかろう。

一枝は君に傾く花万朶           山本 富枝

 写生にして愛の表明。「傾く」が良い。下五はもっと離す方法もあった。

痛々しいチームに勝たせたい桜       高橋 寅彦

 満開の桜に囲まれての草野球。あまりに一方的な試合だったのである。

逐いつめて逐いつめてなお棕櫚の花     岡田 治子

 ここまで逐いつめてもまだ解決の糸口が見えないのかと。見上げれば棕櫚の花。そこに次への一歩を感じている。

春灯の異国に置けりマタイ伝       木之下みゆき

 そこだけ異国であるような空間が、「マタイ伝」と「春灯」によって作られている。

百枚の代田は月を奪いあう         香取 哲郎

 「田ごとの日」は芭蕉のアイディア。そこから無数のバリエーションが作られた。この句は「奪い合う」が眼目。

吊革に毛深い男利休の忌          倉岡 けい

 男を見る冷めた目。実に俳句らしい滑稽感が漂う。利休の野心がかいま見える。

エープリルフール外野が多すぎて      互井 節子

 草野球ではない。無責任なご意見に、当事者が困惑しているのである。

みな偉くなれると思う葱坊主        山本 敦子

 可能性を言祝ぐとも皮肉とも。

春愁を風のポストへ投げ入れる       志賀 綾乃

 手紙に書くことによって救われることも。

たましいの結び目堅し蝶生る        吉田 季生

 決意とか信念とか、そういうことを言っている。

たのもしき投球フォーム風光る       水沼 幸子

 「投球フォーム」という具体性がよい。

星おぼろ鳥は塒に瑠璃をおく        斎藤 澄子

 言葉が美しい。軸にこういう句があってもよい。

魂を木の芽の雨に包ませる         志田佐代子

 自然と触れあえたときの気分を巧く言っている。

満開の桜撮り溜め若返る          坂口 伸子

 「撮り溜め」が新しい。また含みもある。下五「若返る」への展開もよい。

ケータイに運命が来てちるさくら      近藤 和代

 携帯電話に訃報が入ったのであろう。

夜の桜無駄な器が酔いつぶれ        山田美枝子

 食べ残しを入れて散乱する酒席の器。それは、酔いつぶれた人のメタファーなのである。

よい水を見つけた先祖鳥帰る        岡野 高士

 井戸から汲み上げた水が旨い。その時、その水を見いだしたのが、この土地に住もうと決めた先祖であることに気づいたのである。

だれかれの夢を閉じこめチューリップ    椿  良松

 巧い句である。ただもう少し作為を抑えたい。

青春は悔いのかたまり夏がくる       染谷  昇

 「夏がくる」の作為のなさがよい。共感してしまう。

        
20年5月

口中に甘い殺伐金盞花           山崎 文子

 生への誠実としたたかさ。金盞花も強い花である。

繃帯をして逃げ水のように居る       山崎 政江

 自分を守ろうとする気持ちを客観視。

呼びかけているのは水輪鳥雲に       鈴木 郁子

 発つ鳥が残した水輪。天地の呼応による叙情。

墨東の空のにごりを鳥帰る         高木きみ子

 「にごりを」には「墨」とともに東京のイメージも。

ふらここを漕ぎ暖流に乗り移る      木之下みゆき

 この「暖流」は比喩。人生の流れを変えるということ。

手のひらの血筋きれいに名残雪       平垣恵美子

 「きれいに」は実像と生き方と。「名残雪」が美しい。

春望の湾へひと筋鉄の船          杉山真佐子

 只言の妙。「ひと筋」「鉄の」が効いている。

春仕度捨てる時代に従わず         山本 富枝

 次の冬へのたしかな準備も。

春日燦々羊水の子に手足          松澤 龍一

 エコーの胎児。春日が子を言祝ぎ、子は春の象徴となる。

春を待つ草食獣のように待つ        香取 哲郎

 飢餓の冬から春へ。

花の空かき曇る日の無色の血        平山 希恵

 「無色の血」は自らの存在性。

見えていて辿りつけない葱坊主       志賀 綾乃

 青春への思いが重なっている。

道化師の十指朧をかき鳴らす        小林 俊子

 曲がった指が見えてくる。

朧夜をぬける王妃の旅鞄          福田 柾子

 マリー・アントワネットの鞄はすべてを突き抜けている。

含羞を懐紙に包む雛あられ         安田 政子

 若い女性の仕草の写生。技巧だがいやみは少ない。

戻れば梅へ法面が暮れていく        荒木 洋子

 梅園の斜面に夕闇が押し寄せていた。

切実を越えねばならぬ冬帽子        岡田 治子

 切実な現実。さらにそれを超えなければならぬ現実。

背信の靴紐ほどけ戻り寒          水谷 田鶴

 曲折を経ての結末。結んだはずなのに。

待ってはいないふらここの順番       藤田 富江

 やんちゃ坊主に生き方を学ぶことも。

乱声の水おぼろ夜へ奔走す         小柳 俊次

 まっとうな写生だが、作者の多忙がかいま見える。

フリージア鬼籍にあれど誕生日       新居ツヤ子

 故人はフリージアを愛していたのであろう。

太巻の寿司の切口春めけり         互井 節子

 玉子やら田麩やら、とりどりの色が見える。

小さくも己の旗で花辛夷          岩瀬 輝代

 辛夷から得た直観。教訓的だが上質。

春疾風リングサイドのけもの達       高橋 寅彦

 食いものにする応援団だが、自然界へイメージが膨らむ。

耕しの柄に四割の需給率          岡野 高士

 せめてその四割を守ろうという自負も。

一人漕ぐブランコぎしぎしして泪      尾上 康子

 「泪」は言い過ぎだが、「ぎしぎし」がよい。

20年4月

慟哭の背後に野火の溜りだす         山崎 政江

 「野火」は、燃えさかり、焼き尽くし、燻り続け、ただ荒涼とした焼け野原を残す。熱情と後悔が、悲嘆の背後に積み重なっていく。

着ぶくれて闇を見抜けぬままでいる      山崎 文子

 見えないからこそ「闇」なのだが、それでも人は正体を見ようとする。他者の闇も結局は自分の不明。「着ぶくれて」は甘さの自覚。

水仙を剪り疎かにせぬ目覚め         杉山真佐子

 ひと日のために庭の水仙を剪って水盤に活ける。今が大切と気づくことが「目覚め」。「疎かにせぬ」には自戒も。

地の神のなすまま寒の大地に立ち       和井田なを

 どんなに科学が進んでも、自然に従わなければ農は成り立たない。字余りが思考の深さにつながっている。

咳けば鏡が横を向いている          倉岡 けい

 自分に見放されたような滑稽。一瞬を掴んでこそ俳句。

食膳の尊きみどり春浅し           荒木 洋子

 改めて野菜の尊さを思う。「春浅し」なればこそ。

不死鳥が忘れていった寒怒涛        木之下みゆき

 亡き人の強さ。女手で七人を育てた御母堂への追悼句。

紙の雛一人もの食う音たてて         稲垣 恵子

 生きることの薄さ。「紙」と「もの食う」が響き合う。

雪しんしん女は服の皺活かす         岡田 治子

 「活かす」に驚く。生きる力とはこのこと。

薄氷の岐路に立ちたるわが海図        鈴木 郁子

 流れゆく薄氷に自分の行く末を測る。「海図」には希望も。

聞く耳も忘れる耳も寒明ける         河口 俊江

 生き方ということ。「耳」と「寒」が響き合う。

まんさくや捩じれて太くなる絆        吉田 季生

 縮れたような満作の花から、捩れた絆への連想が面白い。

春月の海ざらざらと少年期          松澤 龍一

 「春月の海」から「ざらざら」に展開する違和感が絶妙。

大寒の底骨肉の屯せり            香取 哲郎

 「骨肉」は肉親だが、すべての人とも。

20年3月

着膨れて羽根の浮力に漂える         杉山真佐子

 着ぶくれたときの身体感覚なのだが、その人の生き方までもかいま見られて愉快。ダウンジャケットであったかも。

風に穴開けて母よとかいつぶり        山崎 政江

 かいつぶりの所作と、自己の感慨とが一体化している。作者のご母堂は十二月に他界された。ご冥福をお祈りする。

女正月銀の小匙のさざめきも         文挾 綾子

 和に洋を持ち込んだ面白さもあるが、眼目は女性の来し方への自負と誇り。謙虚にして優美である。

椿どきどきランナーが追い抜いて       鈴木 郁子

 椿に自己が一体化している。ランナーのエネルギーに反応した椿の形象が、状況と心情を同時に語っている。

初鴉風のくさりを解き放つ          小島 裕子

 「風のくさり」という措辞も佳いが、「くさり」から「解き放つ」への展開がこの句の生命線。言葉に力がある。

フルートの波形にゆるぶ寒の月        小林 俊子

 「波形(はけい)」は、振動の形で音色を決定する。柔らかいフルートの音色は正弦波に近いが、特有の倍音も持つ。

手袋は龍の形をして黙る           荒木 洋子

 「黙る」というからには、ただ形だけのことではない。存在性や生命力など、「龍」のすべてと重ねているのである。

海鳴りの底にかじかむ土着の灯        倉岡 けい

 「かじかむ」に作者の心情がにじみ出ている。「海鳴りの底」「土着の灯」と措辞のすべてに神経が行き届いている。

あなたの子あなたの孫と四日の手       稲垣 恵子

 親子三代が集まってにぎやかな正月四日。写生句ではないが、それ以上に情景が見えてくる。そこに複雑なドラマも。

初御空風に吹かれてみな他人         山本 敦子

 「初御空」と「他人」のミスマッチから、人間関係の根源に至る懐疑が引き出されてくる。確かにみな他人だ。

ひと粒の本気が見える冬苺          笈沼 早苗

 苺のたしかな存在感。「見える」をひねらなかったところがミソ。具体的に見えているわけではないからこれでよい。

膝頭かかえてクリスマスソング        互井 節子

 寂しい内面が、クリスマスソングという状況の中で逡巡している。こういうことが言えるから俳句はすばらしい。

寒夕焼男は海に旗燃やす           松澤 龍一

 志してきたことに幕を引いたということであるが、挫折とは違う美学がある。高柳重信の船長の句なども想起させる。

反骨は背に出ている滝凍る          平垣恵美子

 中七で切って読む。瀧を見ている人の反骨と凍る滝の両方を作者は類比させて見ている。

凍滝へ神はことばを惜しまるる        高木きみ子

 「冬滝の寡黙」でも句になるところを、さらに複雑に、神が冬滝に対して黙したと見た。冬滝の美や尊厳も言っている。

北颪別離を握りしめている          柴田 澄子

 切なさに堪えている感覚と、思いを抱え込んでいる感覚が「握りしめている」に凝縮して見事。「を」の力も大きい。

降り足らぬ雪検索はあ行から         増田 元子

 「あ行から」調べるとは、よほどヒントに乏しい情報なのであろう。不明の世界に立ち向かう不確実の感覚。

冬の夜が軋むガラスの昇降機         関根 薫子

 透明なエレベーターを「ガラスの昇降機」と言ったのは的確。「軋む」と「昇降」が、不安定な状況を暗示している。

冬耕の今も戦士でいる男           鯉沼 幸子

 この国で農業を続けるということは、戦い以外の何ものでもない。実の兄を詠んだ句という。

鏡割くだきて何を取りいだす         三井 正義

 もちろん何も出てこない。しかし、割るというからには、何か目的があるはず。それは何?

恰好の恋の木となり実南天          三上  啓

 鳥の恋の句であるが、鳥と言わずに言い得た。

霜夜の夢どれだけ遠くまで行ける       小暮喜代子

 せめて夢では遥かまでという想いだが、実際の行く末も。

20年2月

小春日のこころにありぬ水位計        香取 哲郎

 水位計は実際に眼前にある。小春日の暖かさの中で、それが自分の心にもあるような一体感が生まれる。そのとき、心の深さを測る、という発想が生まれたのである。

柊の花の記憶にのどぼとけ          安田 政子

 「のどぼとけ」と言えば男性であろう。「柊の花」の季節に出会ったか。暗示といえば暗示だが、どこか滑稽感も漂う。その微妙さが可笑しい。

風花やきらきらだれをほめころそ       表  ひろ

 「だれをほめころそ」という悪女ぶりも面白いが、「や」という古典的な切れ字が、違和感なく口語体に結びついていく流れも見事。「そ」と言いきったからである。

寒椿人には見えぬ影のあり          山崎 政江

 これは聞き句(作者に尋ねなければ分からない句)である。人が気づかない影を椿が持っているというのか、椿の影は人間には似ていない、と言っているのか、人間には見えない影があると言っているのか。最初の読みが普通だろうが、三番目だと哲学的。二番目の読みは論外。

暫くはたましい預けおく冬木         山本 富枝

 長い時間冬木を見ている。ただそれだけのことだが、言外に、俗世間に戻っていかねばならない魂の疲れを匂わせる。

聖夜近し積木の赤を燃えたたす        荒木 洋子

 クリスマスが近づいた時期の高揚した気分をうまく表現している。「積木」も「赤」も「聖夜」とよく繋がる。「燃えたたす」も技巧を超え、感覚のレベルになっている。

霜林はむかしの化身谺棲む          岡田 治子

 「むかし」という抽象的な概念を実体化してしまった面白さ。「霜林」の姿に、さまざまな記憶が交錯したのだろう。

もの音を隠したように柿落葉         河口 俊江

 「落葉」といえば音を詠む人が多いが、その逆を言って、説得力がある。直喩の使い方が巧い。

画家の寒さよ描ききっても朱がたりぬ    木之下みゆき

 「朱」が足りないのは冬景色だからなのだが、画家自身それに納得していないようで可笑しい。

山茶花の一本白し禁猟区           栗山 和子

 平凡な説明が「禁猟区」一語で俳句に。これが切れの力。

葉の影を身に受けとめて冬林檎        文挟 綾子

 これも平凡な説明に見えるが、「受けとめて」だけで俳句になっている。

緋の落葉わが生涯を栞とす          高木きみ子

 「生涯の」ではなく「生涯を」である不思議。自分を、家系、歴史、時間というようなものの「栞」と感じ、紅葉した落ち葉と重ね合わせたのである。

短日の手を遅らせる思考力          渡辺 礼子

 考えなければ、ものごとはもっとはかどる。ところが人間は、うだうだと考える。しかし作者は、そのことを肯定している。「力」まで言っているのでそれが分かる。

20年1月

 碧耀集の選を少し変えた。選句数も変わったが、それは、少しでも内容のある句を採ろうとした結果である。
 俳句は形だと言う人がいる。私も一方でそう思う。だが、形だけ整っていれば、内容がなくてよい、ということではない。俳句も文芸である以上、何かを伝えてこなければならない。それが、ただ、良い景色だった、ということだけでは、いささか情けないのである。
 内容とは何かと言えば、考え抜かれた思想であり、深く見つめた状況認識であり、心の深い動きである。そうしたことを、物に託して短く言うという俳句の特質を生かして表現しようとしている句を採ろうと決めたのである。
 今までも内容のある句を採ろうとはしてきた。しかし、それよりも俳句としての形を整えるということを優先してきた。俳句が巧くなるというのはそういうことであろうと思ったからである。
 だが、いくら形が整っていても、状況認識が甘かったり、対象への切り込みが鈍かったりする句は、心の深いところには届かない。感動といったところで、深い浅いの違いは当然ある。俳句の伝統から見て、ぎこちなさが見えたとしても、ものごとの深いところを何とか伝えようとする句を採ることに決めた。どう言っているかということはもちろん重要だが、何を伝えようとしているかということも重要なのである。

人の名もことばも忘れ鰯雲          利根 美代

 この句は、人間の究極の有りようを語っている。作者はただ老いを述べたつもりかも知れないが、この句は、それ以上のことを語っている。最後に置かれた「鰯雲」という茫漠とした季語が、人間であることを捨てて、自然と同化していく平穏さをみごとに表現している。その魂は、人間を捨て、それ以上のものに昇華していこうとしているようだ。

漆黒の弾丸撫でて冬ざるる         木之下みゆき

 三浦半島吟行での句であろう。俳句は、だからどうだとまでは言わない。それを読者に預ける。預けられた読者は、「弾丸」というものを作り出した人間について考えないわけにはいかなくなる。作者は、争いとか戦争とかいう抽象概念を、「漆黒の弾丸」という存在感のある物に託して述べている。

再会は母校ときめて石蕗の花         文挟 綾子

 ドラマがある。ストーリーは読者が作り出すしかない。長年のわだかまりがあったか、それとも事情で会えなかった友人か。学校は、このような存在であり続けてほしいと思う。

「海行かば」生きて物食う冬はじめ      山崎 政江

 大伴家持の歌による「海行かば」は、NHKによって玉砕報道の曲にされてしまう。頭の片隅にその曲を響かせながら、「生きて物食う」。戦後日本人の精神構造である。

告知とや枯野の人として暮れる        山崎 文子

 病名の告知であろう。「とや」に、言わなくてもいいのでは、という思いがこもる。寒々とした寂寥感である。

大嚏すべてを把握してしまう         岡田 治子

 「嚏」ですべてを忘れるという話はあるが、これは逆。一気に何かが見えたという。あるいは見えたゆえの「嚏」とも。

抜かれたる大根にある地のオーラ       河口 俊江

 「オーラ」と「大根」との取り合わせはユーモラスだが、実感としても納得できる。土俗のテーマも、この作者の手に掛かるとたちまち軽みになってしまう。

かけ出しの頃の肩線そぞろ寒         荒木 洋子

 ふと人が見せる一瞬のしぐさに、その人の本質が見える。今は押し出しの強い人物に見せているが、一瞬の所作に、「かけ出しの頃の肩線」が見えた、という句。

短日の街は一気に火の坩堝          倉岡 けい

 むろん火事ではない。点灯したのである。その街の生命力も感じさせる。

没落はここに始まり冬怒濤          平垣恵美子

 「冬怒濤」を見ていて、ふとある日のことを思い出す。だれにもある人生の屈折点である。

戦争を知らぬが哭けり冬帽子         和井田なを

 これも横須賀での吟か。戦争に関する何かを見た戦争を知らない世代の慟哭。その心を、作者は後ろから「冬帽子」を見て察するのである。

靖国を咀嚼しており冬の蝶          岩瀬 輝代

 賛成だ、反対だと結論を叫ぶのは簡単だが、しかし、何ごとも状況を見極めるのは難しい。「咀嚼」は重要である。

望月の研ぎしメス待つ手術室         新居ツヤ子

 「待つ」が実に生々しい。そうした時にも、その日が「望月」であることを思ってしまう作者の、俳人としての執念を思う。

過去を游いで数珠玉が色あせる        諸藤留美子

 眼前の数珠玉から、ふと思い出すことがあって、しばらく空想にふける。現実に戻ったときに、その数珠玉が色あせているとしたら、それはどんな思い出だったのであろうか。

人生がメロディとなり柿紅葉         志田佐代子

 ああ、たしかにこの曲は人の生き様を歌っている、そんな曲に出会ったのである。

憂国忌都会にいくつ黒い罠          増田 元子

 この国の美を愛した三島は、その美を亡ぼそうとする戦後に我慢できなかった。民衆はその退廃をうれしそうに見つめているだけ。それは誰が仕掛けた「罠」だったのであろう。

つめたさの指より昇るノクターン       渡辺 礼子

 ショパンであろうか。曲想ばかりでなく、鍵盤の冷たさまでを思わせる。

居心地は国の計らい鳥渡る          平尾礼噫子

 本気か皮肉かは読者任せ。ただ「鳥渡る」には、既に力を抜いて状況を受け入れている趣がある。

レモンの香紅茶に旬のあるごとく       清野 敦史

 直喩の句だが、うまくつなげて新しさを出した(実際は紅茶にも新茶の時期がある)。

そぞろ寒負けていられぬ鍋の蓋        増渕 純代

 湯気を噴いて動いている「鍋の蓋」が見えてくる。

どなたかと話して母の冬支度         渡辺  勇

 そういう「母」との距離の置き方が絶妙である。

鰯雲鳥は携帯音で鳴く            米本きよみ

 何でも携帯の呼び出し音にはなるが、逆の発想が面白い。
  

19年12月

稲の花ひとりでいると鈴になる        山崎 文子

 鈴のイメージが、稲の花と自身とに重なる。鈴は、鳴らしてくれる人を待っている。空洞という想いもあるだろう。殻があり、空洞があり、ひとつの石が置かれている。鈴は、作者の心象そのものである。

人間にいろいろな門小鳥来る        木之下みゆき

 漱石展での句。凡庸に見える「門」を、漱石は最も愛した。「小鳥来る」は小説「門」の主題を言い当てて見事。漱石を外しても読める。幾たび門をくぐって生きてきたことか。

死なばもろとも十月が蛇行する        山崎 政江

 殺伐と見えるが、愛の句である。蛇行を生きていくのが愛。十月という位置取りが動かない。歳晩に向かう手前に、蛇行した晩秋がある。

埋もれた遺跡あるかも芒原          小林 俊子

 人は何かを遺せるのであろうか。いや、そもそも遺すことの意味とは。いやいや、遺したのではない、遺蹟とは、たまたま遺ったものなのである。

もろもろのこと覚めてくる秋灯下       岡田 治子

 「冷めて」ではない。「覚めて」世界がありありと見えてくるというのである。人の背後が見えたのであろう。

長き夜の夢の校舎を走り抜く         小島 裕子

 人は幼い頃「学校」で背負ったものから逃れられない。校舎には幼い頃の夢があり、それをまた夢見るのである。

読みもせず捨てもせぬ敬老日の手紙    文挟 綾子

 役所から来た手紙。おざなりと分かっていても捨てる気にはならない。孤独なのだが、生かされているという実感も。

諳ずる九九十六夜の旅役者          松澤 龍一

 楽屋の子役。景をよく作っている。「九九十六」が笑える。

水鳥と同じ夕映え被て帰る          高木きみ子

 俳句らしい表現というのはこういうことだろう。

ぎざぎざす濁世をくぐりぬけし萩       荒木 洋子

 「ぎざぎざ」の実感に凄み。地には秋霖の泥。

天高しこの世窺う亀の首           香取 哲郎

 この世を窺っても天は高すぎる。構図が面白い。

標本の蝶の瞼にある花野           飯島 好子

 「花野」は浄土。「瞼」に現実を超えた実感がある。

箸穴に飢えの日のあるふかし藷        和井田なを

 柔らかくなったかと刺す穴に、ふと昔がよみがえる。

やさしさが時にマイナス唐辛子        河口 俊江

 唐辛子は辛くなくちゃ・・・。あんたのことだよ。え?

波立てて硯の海の冷ゆるまで         諸藤留美子

 ゆっくりと時間を掛けて墨を磨る。冷静に、冷静に。

山間に霧をめぐらせ密談す          渡辺 礼子

 霧の山での会話を密談と。日常を面白くするのが俳句。

秋ともし書庫の亡霊動きだす         吉田 季生

 書庫には人の思いや叫びがすし詰め。亡霊くらいいるさ。

強風が弓なりに来る筑波山          豊田 ひで

 撓うような力を持つ風。「弓なりに」の形容はみごと。

稲妻や貨車の数だけ闇を曳き         堂下眞佐子

 「曳き」の主語があいまいなのが面白い。自分が曳くとも。

まっとうな種あるものに山葡萄        小暮喜代子

 たしかに「まっとうな種」が絶滅しかねない昨今である。

台風の眼へ錠剤を押し出せり         岩城 房子

 これも日常を面白くする句。颱風の目は一時の小康。

金木犀追憶という髪飾り           山崎 公子

 金木犀の香りがまつわるように。「髪飾り」は見事な比喩。
 

19年11月

葛の花携帯電話が甘ずっぱい         鈴木 郁子

 使い手の息の臭いと考えれば生々しい話であるが、「葛の花」からの流れが詩情を作り出している。携帯電話から優しい言葉が伝わってきたのであろう。持ち物への愛も感じ取れる。携帯電話は、持ち主のすべてを知っている。

たましいの向き変えてみる彼岸花       山崎 政江

 ものの考え方や生き方を変えたということであるが、「たましい」「彼岸花」という二つの語から、それが死生観にも広がっていく。「たましいの向き」を変えるというのは一大事に違いないが、それを「変えてみる」とあっさり言ってしまうところが俳句なのである。

とんぼうに仔細ありけり火の匂い       水沼 幸子

 生きとし生けるもの皆仔細を持っているに違いない。このトンボもまた、何しろ火の匂いを漂わせているのである。何があったのだ、どうやって生き抜いてきたのだ、と作者はトンボに問いかける。やがてその問いは、自分にも向けられていく。中七の切れがすばらしい。

働いたこの手にとまれ赤とんぼ        山本 富枝
 

 「この手にとまれ赤とんぼ」という常套句が、これも平明な「働いた」という措辞によって生き返ってしまった。平易な言葉で生きることの深さを語りきっている。

頬杖は不思議な時間青すすき         高木きみ子

 「青すすき」を前に、自分が頬杖をついているのに気づく。そして自分は何をしているのだろう、と思う。だが、それは無駄な時間ではない。無為というべき重要な時間なのである。

敗因は扉の向こう曼珠沙華          安田 政子

 扉を開けて、もう一度やり直すことができない状況なのであろう。少々思わせぶりだが、曼珠沙華が死生の問題を暗示していていろいろ考えさせられる。

野分後の青空すべり易くなる         小柳 俊次

 感覚としてよく分かるし、俳味もある。作者は、大風に磨き抜かれた大空を見たのである。

新米の光受胎は告知され           松澤 龍一

 受胎告知は春の季語だが、この受胎告知は現実のこと。季語は「新米」である。生命賛歌の句。

雲の峰寒天ゼリーぎらぎらす         戸邉ますみ

 夏の日差しでゼリーが光っているというだけのことなのだが、実に深い滑稽味がある。寒天ゼリーというさっぱりした存在が、脂ぎっているからである。

三日月のツボの一つに過去がある       和田 三枝

 三日月にツボがあるというだけで、すでに一つの仕掛けであるが、作者はさらにそこに過去までみてしまう。やせ細った月に自分を見たのであろうか。そこを突かれると、どうしようもなくなる思い出があるということであろう。

子の厄を払い秩父の鬼やんま         岩瀬 輝代

 「子の厄を払い」から「秩父の鬼やんま」への展開がみごと。音のつながりもよい。

因縁は秋の繭より始まりぬ          齋藤 和子

 実際に何があったかは分からないが、「秋の繭」からは少々質の劣る糸が紡ぎ出される。そこが因縁とつながっていく。

煙さえ朝の生きもの稲稔る          和井田なを

 豊穣の秋の生き生きとした朝。煙さえも命を宿す。

太陽の紐に群がる赤とんぼ          小林 俊子

 太陽の光線を紐に見立てた。「群がる」の措辞がよい。

人間も時計も遅れがちに霧          石塚日出子

 すべては霧のせい。斬新な言い回しである。

白黒をつけし直球野分立つ          永妻 和子

 草野球であろう。最後の一球がズバッと決まる。

歩幅をしぼり爽涼へ含まれる         諸藤留美子

 「しぼり」が巧い。「含まれる」は無理と紙一重の成功。

人形の種も仕掛けも十三夜          菅生 きく

 中七「も」で言い終えたのが絶妙。

マーブルチョコ零れ小鳥の来そうな日     表  ひろ

 感覚としてよく分かる。色鳥からの発想か。

遠巻きに来て秋の雷土俵入り         野本 ちよ

 「遠巻きに来て」がよく分かる。「土俵入り」は実景。

原因は仏陀の悟りこぼれ萩          山田美枝子

 すべての事象の原因は、あの悟りであったのか、と驚く。

子のメールいつも簡潔秋灯          志賀 綾乃

 「いつも簡潔」に満足と不満が同居している。

点滴す触れんばかりに星流れ         飯塚 宣子

 ベッドから見上げる液の落下と流れ星。すでに夢の世界かも知れない。

19年10月

かわほりや濁流が灯を揉みに来る       山崎 政江

 押し寄せる濁流。黄昏の街の灯が激しく川面にうねる。その上を蝙蝠が不規則な軌跡を描いて跳び続けている。情景の描写に徹しているが、明らかに心象の奥底の象徴。現代絵画を見るようであるが、灯を固定させ、そこに濁流が「揉みに来る」というのは言語表現ならではの工夫である。

見えぬ絵の落款となる夏の月         岡田 治子

 月を落款と見る発想は古典的なものである。それを、ただ「見えぬ絵の」という措辞だけで、一気に現代俳句にしてしまった技量を評価したい。

原爆展見しより木綿の肌ざわり       木之下みゆき

 難しい句である。「木綿の肌ざわり」という庶民性を表す常套句を「原爆展」と組み合わせ、新たな意味を生み出そうとしている。表の意味としては、実際に木綿を着ていて、肌感覚が鋭敏になって、その肌触りが意識されるようになったということでいい。だが、その裏で、この「木綿の肌触り」は、状況に対する皮膚感覚であるように思われる。

眼帯をつけ雲海の目を知りぬ         荒木 洋子

 「雲海の目」は、実は作者のかすんだ目か。雲海に目があったとすれば、こういう見え方かと。しかし、読み手には、明らかに雲海の中に巨大な眼が見えてくる。私たちの心には、いつも何かに見つめられているという感覚が潜んでいる。

沈黙の範囲におりぬ道おしえ         小柳 俊次

 「範囲」の措辞が絶妙。しかも、そこにいるのは「道おしえ」だという。複雑怪奇。もはや説明不可能なおかしさの領域に入っている。哲学的なおかしさである。それがわかる人は、俳句の滑稽性がわかってきたと自信を持ってよい。

天網に捕われており昼寝覚          香取 哲郎

 目覚めた後の体を動かしにくい数秒を言ったのであろうが、過去の罪業を夢に見たとも。

山ぶどう山の力を篭に編む         ひねのひかる

 山葡萄を見つけ、手近な材料(山葡萄の蔓かもしれない)で、それを入れるかごを編んだのである。「山の力」が光る。ちなみに野葡萄は食べられないが、山葡萄は食用になる。

河童忌の大皿小皿水匂う           福田 柾子

 「大皿小皿」は、実際に眼前にある皿である。これを付き過ぎとはいわない。「水匂う」とあるから、逆に、皿を洗っているのではなく、展示された皿であるかも。

るいるいと遺影に泣かれ蝉の森        渡辺 礼子

 泣き顔の遺影というのも考えにくいから、死者の悲しみを作者だけは知っていたということであろう。知ってしまった作者には、その重さをはき出す場所がない。ただ蝉の森を歩いていくばかり。

約束をした日眠れずソーダ水         関谷ひろ子

 深夜、一人で起き出した作者の前に、ソーダ水の泡がゆっくりと浮き上がっていく。軽い句に見えるが、ドラマが隠されている。

幸不幸一直線に鮭遡上            鈴木 郁子

 「幸不幸」は作者の身の上。眼前には遡上する鮭。鮭は産卵のために遡上するのであるが、その後の宿命は壮絶である。

密談の火照りをさます秋の風         志賀 綾乃

 「密談」一語で、只言(ただごと)を逃れた。

糸底に涼気肋の鎮もれる           杉山真佐子

 手にとって茶碗を拝見している。茶席であろう。「鎮もれる」というからには、それまでは高ぶりがあった。それが、轆轤から糸で切り離されたみごとさに鎮まっていく。

蛍火や一つはぐれていて浄土         倉岡 けい

 「一つ」というところに浄土を見た作者は、孤独の中にも最終的な安寧があると信じたいのである。

ペン立てに混じる耳掻き遠花火        上野かづ子

 よくある光景だが、「ペン立て」の中の「耳掻き」は確かに俳味がある。さらにその「耳」から「遠花火」へと展開していくおもしろさ。物と物とのちょっとした響き合いも、俳句のおもしろさのひとつである。

天も地も焼きつくす日の琴の爪        文挾 綾子

 「琴の爪」への展開が見事。生への前向きな姿勢がよい。

雲が雲を裁いて月の涼しかり         小島 裕子

 「裁いて」が出色。激しい雲の動きの結果の月夜とわかる。

あいまいな線引き仕掛け花火かな       山本 敦子

 比喩句にも見えるが、実際の花火を見ていると読みたい。

連続を定義しておりかたつむり        斉藤 良夫

 連続の定義は難しい。「かたつむり」は出色。

夏蝶の脚に異国が付いて来る         表  ひろ

 難解だが、素直に夏蝶は異国の匂いがすると取っておこう。

夏の霧飼主を待つ悲しい眼          志田佐代子

 むろん動物のことだが、人間のことにも考えが及ぶ。

八月の雲の寡黙を裁けるか          西崎 久男

 寡黙でいるしかなかった人たちもいる。

復縁す蝉鳴く山を傘として          石塚日出子

 「傘」は花嫁御寮の行列からの連想。密やかな復縁。

思いきり午後はなまけて花木槿        和井田なを

 働き続けてきた人だからこその句。「花木槿」もよい。

雲の峰海へ崩れる力あり           飯田登志子

 「崩れる」ことを「力」」と見たポジティブな発想がよい。

引き際の水辺涼しく翅やすめ         永妻 和子

 「引き際の」は鳥のことだが、人にも考えが及ぶ。

秋暑し鍵を忘れて鳥になる          尾上 康子

 自由への希求。「鳥になる」への展開がみごと。

19年9月

朝曇今日のドラマが匿されて         岡田 治子

 朝曇は猛暑の気配を言う。どんよりとした曇空の下で今日はどんな出来事が起きるのか。作者は、何が起きるかを知っているようでもある。朝曇からの展開がすばらしい。

魂は水底にあり雲の峰            安田 政子

 水に映った雲の峰を詠んでいるのだが、「魂は水底にあり」は、むろん作者の矜恃でもある。その自負がうれしい。

夏の夜の万年筆の吐く怒り          香取 哲郎

 日記であろう。我慢のならぬことを書き付けているその指先の力まで伝わってくる。「吐く」がみごと。

風景の窓に八月十五日            表  ひろ

 風景しか見えぬはずの窓にも、世の中の状況が見えてくる。それが八月十五日という日。何を見たかまでは言わない。そこに、作者と読者の共有空間が生まれる。

地層ずれくる足裏の油照り          小林 俊子

 地震のことであるが、足裏の感覚で捉えたところが新しい。「油照り」と飛躍したところに気持ちまで表現されている。新しい表現への挑戦を感じる意欲作。

今せねば百合うたかたとなる白さ       山崎 政江

 何をしなければならないのかは言っていない。百合と限定して考えれば「咲く」という答えが出るが、むろんそれだけではない。「伐る」という答えもある。それらはみな自分自身の存在価値に還ってくる言葉である。

帰省して双手に余る自由席         木之下みゆき

 地方に帰ったら、列車の自由席がたくさん空いていたというだけのことだが「双手に余る」という言い方が、作者の身体や心の開放感を存分に伝えてくる。

水っぽい夏野に酔えり長睫毛         後藤 保子

 「水っぽい夏野」とは、この作者にしてはずいぶん思い切ったことを言った。新たな表現へのどん欲さが見える。

あの頃は良い子で通し雲の峰         和井田なを

 屈折点を持ってしまった人は多い。「良い子」というのは、正直ではないということと同義なのである。

星合いの情死光年の薄明かり         松澤 龍一

 「星合いの情死」は、読みようによっては言葉の悪ふざけだが、心の問題と考えれば、「情死」させた恋を胸に秘めて生きている人は多かろう。

嗅覚も味覚も戻り平泳ぎ           渡辺 礼子

 戻ったから泳いだのではなく、泳ぐことによって戻った。生きている証を嗅覚と味覚にまとめた滑稽が成功している。

巻貝となる夏の日を耳に当つ         杉山真佐子

 貝を耳に当てるというのは詩歌の常套手段だが、「巻貝となる夏の日」は斬新。「巻貝」が利いている。「巻」の語に一夏の経緯が暗示されている。

はんざきの吐きだす闇の水澄めり       吉田 季生

 洞窟で山椒魚が吸い込んだのは闇の水であるはずだが、今彼がはき出した水は澄んでいる、という驚き。現実にこだわってきた作者だが、言葉の世界の面白さに開眼しつつある。

背泳ぎが得意少女の長睫毛          増田 元子

 「得意」と「長睫毛」がうまく合っている。

噴水の穂がポキポキと折れてゆく       倉岡 けい

 「ポキポキと」に実感がある。

雲の峰膨らむほどに透き通る         栗山 和子

 雲の白色が薄くなって空の色に近づいたのである。

夏椿僧侶はすでに水である          関根 薫子

 悟りとも存在感とも。この作者の新境地である。

遺言が鏤められて天の川           三上  啓

 発想が面白い。「鏤められて」も巧い。

山峡に夜のサイレン男梅雨          増田ハツエ

 「男梅雨」が見事。体を張って働く男がいるかと錯覚する。

シンバルが校舎を包み大西日         黒澤 花恵

 夕暮れの校舎に鳴り響くブラスバンドのシンバル。

箱庭を誉めて一級建築士           岩城 房子

 箱にはと一級建築士の取り合わせが面白い。


19年8月

夏の日を人差指の渦におく          稲垣 恵子

 「渦」一文字で俳句になった。「指紋」は概念。「渦」は写生。その違いである。「渦」に来し方まで見えてくる。

止まらない時間螺旋のかたつむり       高木きみ子

 時間が止まらないのは当然のことだが、「かたつむり」と合わせると特別の感慨が生まれる。「螺旋」も利いていて、奧に、太古から続く時間が見えてくる。

麦秋は曲れず無一物であり          荒木 洋子

 おそらくこの人は一年中曲れないのであるが、特に麦秋の季節はそう感じるのである。確かに「麦秋」という言葉には純粋な一途さがある。「無一物」は、ものにあふれた世に生きているからこその言葉。

生命にもある陰日向半夏生          福田 柾子

 いささか観念的な言い出しに驚くが、「陰日向」と続けた滑稽がそれを救っている。「半夏生」は「陰日向」から素直に続く。

星合いの山中は水漏れている         山崎 政江

 考えてみれば、山からは常に水が湧いている。当たり前のことだが、「山中は水漏れている」というとらえが楽しい。七夕の夜の山中。抒情と滑稽が同居している。

小荷物の結び目固し梅雨湿り         志賀 綾乃

 「小荷物」の「小」が利いている。「固し」の「k」音と響き合って、堅固で小さな結び目の感覚が伝わってくる。湿っているから固いという因果関係では読みたくない。

ほたる袋いくつ咲いても皆他人        野本 ちよ

 螢袋の花を愛しんだのである。慈しんだからこそ、よそ事だと気付く。「皆他人」という言い方に、新しい俳味がある。

草むらに風を呼び込む蛇の舌         香取 哲郎

 「蛇の舌」にリアリティがある。「蛇」で終わっていたら、この感覚は生まれない。

しがみつく雲の流域あめんぼう        小柳 俊次

 水に映った雲と水馬の取り合わせは無数にあるが、「雲の流域」が類想性を逆転させている。

自分史をはみ出して行く蝸牛         河口 俊江

 「自分史」の句も多いが、比喩ではなく蛇行して進む蝸牛の写生と読めるところが面白い。

ピーマンを切って不満を出してやる      山本 富枝

 ピーマンの種は何やら複雑にからみついていて、あれが「不満だ」と言われればそうかとも思う。そうした実感が大切。

父の忌の雨うすうすと豆御飯         鈴木 郁子

 「うすうすと」は小雨だと言っているのであるが、面影のようなことも思わせる。「豆御飯」が情にからまなくてよい。

さよならとあっさり言われ源五郎       和井田なを

 「源五郎」が人を食っている。しかし、「さよなら」と言われた空白感が伝わってくるから、日本語は面白い。

ふかぶかと母在します青葉木莬       木之下みゆき

 「ふかぶかと」がよい。俳句を副詞で言い始めると俗っぽくなることが多いが、この句にはそれがない。

少年に飯盒噴けり青あらし          文挟 綾子

 「に」が実に俳句らしい。「に」一文字で、少年がうまく炊けるかと見つめている姿や顔が見えてくる。「青あらし」には、たくましさへの願いがある。

忘却の誰か呟く青葉木莬           安田 政子

 重層的な句である。「忘却の誰か」で切るか、「忘却の」で切るか。記憶の中の誰かが呟いたと読んでおこう。

六月の指より零る紙の鶴           豊田 いと

 「六月の」で切れる。「六月の」は、「指」だけでなく、その下の全体に響く。折りかけの鶴を落としたのであろう。六月という、生命力にあふれながらもいささか暗い月の気分をよくとらえている。

セレブとは足を組むことソーダ水       松澤 龍一

 セレブは、セレブリティ(celebrity)の略。和製英語と思っていたら、米英とも「celeb」で通じる。著名人、名士、名声、高名という意味。「ソーダ水」がほどよい。これ以上どぎつくしてはいけない。

ブロック塀なりの素直さ風薫る        岡田 哲夫

 風情などありそうにもないブロックに、作者は心を読んでいる。単純に積まれたブロック塀だけに「素直さ」には納得させられる。

鍋底に踊る蒟蒻青あらし           中山 正子

 「青あらし」に驚く。読んでいる方の心まで、こんにゃくと一緒に踊り出す。

19年7月

幾人を忘れただろう卯浪風           山崎文子

 忘れてはならぬ人を忘れて生きている。忘却に救われて生きている面もある。少し長く生きた人生を振り返ると、茫洋とした過去があるばかり。「卯波風」は選者は初見。独創であろうか。

身ひとつの渇き八十八夜なる          山崎政江

 「身ひとつの渇き」は、単純に「自分だけの渇き」とか「自分が一人であるための渇き」などと解釈できるが、逆にそれは「しがらみ」があるからこその言葉でもあろう。「孤独」などという言葉を使わなかったために含みが作られ、句の厚みが増したが、それだけに解釈は難しくなった。「八十八夜」には、今年もここまで至ったという感慨がある。自分のことを考える時間が持てたということである。

万緑へなだめつつ切る足の爪          山本富枝

 足を傷めているのであろうが、切られる爪が文句を言っているようでもある。「万緑へ」の 「へ」もおもしろい。縁側で切る爪が、外に飛んでいく景が見えてくる。

麦秋のどこかが燃えていて独り         安田政子

 燻った匂いが漂っているのである。そこに生まれる「ああ、燃えるということがあった」という郷愁。あるいは「燃やすものがない」という感傷である。

魚の目の喉元過ぎてゆく朧           河口俊江

 この作者には珍しく、なまなましい句である。「朧」が技巧に見えるのが難だが、こういう方向は良い。新しい境地が生まれるのではないか。

傷さえもきらめく五月誕生日         和井田なを

 心の傷ではない。生身の傷である。「誕生日」とあるからには自分の傷でなくてはならない。作者は、初夏の陽光にきらめく「傷」を誇らしげに眺める。「傷」もまた生きている証なのである。

ケータイに夏の少年崩れ落つ          篠原 元

 「携帯」だけでは電話のことにはならないが、「ケータイ」と表記すれば間違いなく「携帯電話」のことである。少年を崩れさせるほどの電話とは何だったのであろう。具象の奥に、状況を見つめる作者の直観がある。

指先の夜は火となる薔薇の棘          香取哲郎

 夜になって、はげしく火照りだす指先の傷。細部を詠んだ具象でありながら、不思議な文学的空間に読者を誘う力を持つ句である。

石鹸玉軽くこの世に親しめる         杉山真佐子

 生まれてすぐ消える石鹸玉。しかし十分にその生を楽しんでいる。「軽く」がみごと。

新樹光誰も輪郭などなくて           表 ひろ

 新樹を通ってくる初夏の逆光で、そこに立つ人の輪郭がはっきりしないという具象であるが、もちろん句意はそこにとどまってはいない。たしかに明治、大正、昭和と、生きる人の輪郭がだんだんあいまいになっている。

愛憎が見え見えであり夏の雲          斉藤良夫

 積雲や積乱雲が、すさまじい形を競い合っている。それを露骨な愛憎と見た。そこに何を重ねるかは読者次第。

玉葱の括られてより眠くなる        木之下みゆき

 眠くなったのは玉葱であり自分。もう眠いのだから自他の区別もあいまい。境遇に身を任せるという生き方もある。

薫風や小菅の塀へ目がうごく          小柳俊次

 旧小菅刑務所は、東京拘置所と名を変え、現在では地上12階、50メートルのヘリポートを持つ近代建築となった。高速道路からも常磐線からもよく見える。塀は昔の建物といっしょに内部に残されている。掲句、ただの滑稽にも見えるが、そこに自分にもある罪の意識を隠している。

芽吹く日や一日すぎれば一日減る       新居ツヤ子

 生と死の切実な認識。只言に深い人生観が秘められている。

海市から来たのだろうか文学部         荒木洋子

 現実感の希薄なことを言う青年に会ったのであろう。その立ち姿も俗から離れたものだったか。

目より濡れ青葉の中に吸い込まる       高木きみ子

 「目より濡れ」に実感がある。自然との一体感にその日の幸せがある。

大空に擦れ違いたる花便り          西宮はるゑ

 電子メールか航空便か。作者の想像力に脱帽する。

晩年の出口が見えて仏桑華           文挾綾子 

 たしかにそういう見方もある。寿命を言っているのであるが、晩年を晩年と思わなくなることとも。

心根が崩されており冷奴            白井春子

 人には、何かの痛手で良心が危うくなる一瞬がある。だが、その自覚が、自我の崩壊を防ぐのである。

東京の人になりきる卒業期           小島裕子

 若き日の作者は東京に出て働いていた。その眼差しが、今の若者を暖かく見つめる。

花祭眼鏡ずらして黄泉を見る          岡田哲夫

 「眼鏡ずらして」という描写が滑稽を生み、そこに深さを与えている。

夜の新樹駅が女の顔変える           寺田勝子

 大切な人に会うのだ、この駅で。取り繕っているのではない。自然と顔が変わるのである。

19年6月

吹っ切れぬものが泡立つ花篝        木之下みゆき

 「泡立つ」は胸の内のこと。心に引っかかっていたものが、夜になってさらにざわざわと騒ぎ始める。あのままでいいのか、何か手段はないのか、と。夜桜を照らす火の影の揺らぎが心のざわめきを投影する。

ずしんと大利根あちらにも花が散り      山崎 文子

 「あちら」は対岸。まずは実景と取りたいが、川幅の広い利根の対岸の落下が明瞭に見えるとも思えない。とすれば、これはやはり心象のこと。となれば、「あちら」は此の世の対岸でもあるのだろう。「ずしん」が利いている。存在感のあった人を思っているのかもしれない。

リラ冷えの絵皿一つが罠である        山崎 政江

 絵皿が掻き立てる感情は何であろうか。所有欲か嫉妬か、それとも破壊への衝動か。いずれにせよ作者は、絵皿一枚で人は判断を誤ると言っている。「リラ冷え」という気取った季語が、ここでは怖ろしく冷め切った心を伝えている。

乾ききる春田に人の濡れており        岡田 治子

 人が濡れている具体的な理由は何も書かれていない。大方の予想は働いて汗をかいているということになろうが、それも明らかではない。ただ言えることは、人が生きているということである。生きているから濡れているのである。

春風やオールで破る沼の皮膚         高木きみ子

 水には皮膚があると子どもの頃から感じていたのだが、どう表現すればいいのか分からなかった。なるほど、「オール」という別の道具が必要だったのだ。水だけで表現しようとするとうまくいかなくなる。高木さんによいことを教わった。

沢山は言えず遅日の虫眼鏡          荒木 洋子

 拡大鏡は、ものを大きく見せるが、実は視野を狭めている。そのことと「沢山は言えず」という述懐が微妙に重なり合って、思いの深さを表している。「虫眼鏡」のとぼけた味わいがよい。感覚や感情を直線的に言い放つ句柄の作者が、ひとつ余裕を持った間合いのある表現をした。

濡れてくる風を身内に遅ざくら        小島 裕子

 雨模様なのであろう。湿った風と「遅ざくら」の取り合わせに実感がある。この句の「濡れてくる」も生命力の象徴と読むことができると思う。ゆっくりと風の湿度を受け入れて、生きる力を磨いているのである。

引力に素直でありぬ藤の花          斉藤 良夫

 形の上では下五が動く句である。しかし「藤の花」は動かない。この実感は、他のものには代え難い。それは「nu」と「hu」の同韻連鎖のためでもある。

楷書から草書へ藤のときうつる        河口 俊江

 藤の花の印象をうまく言い止めている。「草書」は、花が崩れていくことだけではなく、蔓が野放図に伸びていく様子でもあるのだろう。藤全体の印象なのである。俳句で時間の経過を表現することは難しい。初心の人はまず止めた方が良い。しかし、それも不可能と言うことではないのである。

種蒔きし指もて悪を為すことも        香取 哲郎

 「指」の実感で成り立っている句である。ちょっとした滑稽の句だが、そこには、作者がそうした戯言を言わねばならぬ訳があったように思われる。

葉ざくらの風を揉み出す狂言師        文挟 綾子

 狂言師の所作を巧く捉えた。「揉み出す」は実に巧い。「葉ざくらの風」は、狂言の演目と季節感とを重ねた言葉と思うが、それが屋外の舞台と読めば、なお実感は深くなる。

街の灯がふえて蛤どの子にも         鈴木 郁子

 戦後六十年を想っての句。「街の灯がふえて」で、その六十年を言い表し得たのは見事。そう言われてみれば、食材が貴重な時代があった。この句も時間の経過を詠んでいる。

花冷えの耳てのひらの温かさ         後藤 保子

 耳を覆った手のぬくもりを、「花冷えの耳」が感じとっている。「花冷えの耳に」としなかったところも良い。

いぬふぐりほどの地球に生きており      和井田なを

 「ほど」と引いて、逆にその幸せを強調している。

葉ざくらの熱唱水を従えて          栗山 和子

 「葉ざくらの熱唱」はよく分かる。風も吹いているのであろう。「水を従えて」で景も見える。

ぎりぎりで新緑へ出す委任状         増田 元子

 総会の季節で「委任状」に実感があるが、「新緑」に含みも感じられる。役員が一新したということか。

魚から人のかたちに春袷           柏木  晃

 厚着で見えなかった体の線が見えてきたということだが、冬からの開放感も詠んでいる。    

19年5月

一島の野火いきいきと捨身なる        鈴木 郁子
 
 たしかに野火は捨身であろう。見境もなく焼き尽くし、焼き尽くせば己も消失するしかないのだから。

難しく言ってはならぬ花のころ        荒木 洋子
 
 何ごとも難しく言うべきでないのは常のことだろうが、「花のころ」であればいっそうのこと。

芽を吹きし木立に風を巻くゆとり       金子  敏

 芽吹きの木に風が纏わりつくように吹いている。それを、木が風を巻くゆとりを持ったと。見立ての良さが光る。

料峭や涙ぐんでる朝の燭           岡田 治子

 蝋涙という言葉がある。蝋燭から垂れた鑞を涙と見たのである。だが、この句の涙は作者のものかもしれない。

てのひらに来し方辿る春灯下         香取 哲郎

 石川啄木は貧しさに掌を見た。哲郎氏は過去を辿る。苦楽のすべてが充実の時間を作りだす。

囀や日の金粉の降る青樹           秋元大吉郎

 囀に囲まれただけでも幸せであろうに、この青樹には「日の金粉」までも降り注いでいる。祝福の一句である。

手足から弾む砂浜名草の芽          小林 俊子

 春のうれしさを全身が受け止めている。視覚だけでなく、身体感覚で季節をとらえているのがよい。

青春の門を叩いている楤芽          高木きみ子

 五木寛之に『青春の門』があるが、「楤芽」もこれから風雪の世に。そして作者は逆の方向から「青春の門」を叩く。

春月へ記憶をたたむ母のこえ         笈沼 早苗

 「記憶をたたむ」のは「母」であるようにも読めるが、作者なのであろう。

堅魚木に月絡ませる猫の恋         木之下みゆき

 堅魚木は神社の棟木に乗せた装飾。恋猫が神社にのぼって鳴いているのである。

いつまでも杉の花ではいられない       平垣恵美子

 たしかに花は結実し、木にならなくてはならない。しかしこの句には、杉花粉にばかり構っていられないという意味も。

還らざるもの白梅へ風はしる         小柳 俊次

 「還らざるもの」で切れる。先へ進むことしかできぬものも確かにある。「はしる」が利いている。

思い出の中の雲雀を野に放つ         斉藤 良夫

 実際の雲雀が見えないのである。そこで心にある雲雀をその景に置いてみたということ。

少し溺れて花菜に海を聞いている       表  ひろ

 一面の菜花に埋もれた自分を「溺れて」と言ったのだが、それは海と菜花との景に心が溺れたということでもある。

19年4月

晴れ渡る運命であり地虫出づ         岡田 治子

 隠っていたいと思っても状況がそれを許さない。

冬の星だまったままで水になる        山崎 文子

 水になるのは自分。星々を前に「無」になりたいのである。

星の砂二月の水を振り向かず         齋藤 和子

 いつもその先へ突き進む意識。寂しさも少し。

病むものは拳をひらく春灯し         山崎 政江

 事実をそのまま詠んで、それが詩になる。

鶴帰るとき一枚の正方形           表  ひろ

 実景の捉えが、折り紙への連想に。

野火追うて星を呑み込む喉仏         秋元大吉郎

 息を吸おうと、空を見上げて大きな口を開けた。

鬼やらい羽音激しく鳥失せて         水谷 田鶴

 豆が飛んだか、鬼が走ったか。説明のないのがよい。

弦に指はわせ心耳を朧夜へ          野口 京子

 音の出せぬ深夜。「はわせ」が多くを語る。

濁音の遠慮がちなり春の雷         木之下みゆき

 俳句らしいとらえ。巧い句である。

一人ずつ来て千人の受験生          高木きみ子

 いつの間にか会場は、孤独と緊張感で埋まる。

われにまだ義憤の泪多喜二の忌        香取 哲郎

 既に保守派になりきっていたはずなのだが。

雛飾るピアスの穴のむず痒き         飯塚 宣子

 あら、穴を開けたのね、と雛に見られている感覚。

泣く部屋が欲しい年の豆やたら        稲垣 恵子

 全ての部屋から鬼を追い出してしまったが・・・。

滞空時間落葉を鳴らす靴がある        鈴木 郁子

 一度止めて、ゆっくりと踏み下ろす靴。

一枚の旋律海に冴え返る           福島由紀恵

 波の動きと音を「一枚の旋律」と。

鰭はみな眠りのかたち霜の夜         篠原  元

 動かない水槽の鰭。霜夜の寒さがすべてを静止させる。

心音へ指が泣きこむ余寒かな         平山 希恵

 生き死にの鼓動を確かめようと泣きながら手を胸に。

てのひらに白き春あり竹とんぼ        吉田 季生

 まだ浅い春の感覚。

19年3月

ケータイの圏外にいる聖夜かな        金子  敏

 本来の聖夜とはかけ離れた姿の都会のイヴを離れ、郊外、それも市街からずいぶん離れたところでイブを迎えたのである。携帯電話の圏外にいるという事実の奥に、作者のものの考え方が見えてくる。「ケータイの圏外にいる」は、作者の生き方の表明なのである。

自分史に残照のあり冬の雲          香取 哲郎

 日没の空を見つめながら来し方を考える。わずかに残った光が冬の雲に照りはえている。自分史にも、たしかに光り残っているものがある。

空の日常木々の日常初暦           荒木 洋子

 人間は新しい年を区切りとしているが、空には空の日常があるばかりで、木々も木々の日常を生きている。区切りをつけることは重要だが、人事に振り回されず、それより大きな自然に身を委ねていきたいという願いがある。思想性のある句だが、それを押しつけがましくなく表現しているのがよい。

灯台は一途な青さ寒昴            河口 俊江

 この「青さ」は灯の色。まっすぐな光が沖へと伸びる。「一途な青さ」に純粋な存在への畏敬がある。最後に置かれた「寒昴」が、灯台の置かれた状況を一語で分からせている。

恋札の爪あと青し歌かるた          秋元大吉郎

 「恋札」の句は、それが得意だとか、それが切り札だというパターンに陥りやすいが、「爪あと青し」は斬新でリアリティがある。「青し」は実際の色というより、生々しさの感覚であろう。また若かりし日への想いもある。「恋札」というのは、広義には歌歌留多中の恋を詠ったもの全般を指すのだろうが、狭義には、小倉百人一首の中の、下の句が「恋」で始まる陽成院、相模、三条院の次の三首を指すようである。
 筑波嶺のみねより落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる
 うらみわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなむ名こそをしけれ
 心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな

荒瘠の鷺薄氷をいぶかしむ          山崎 政江

 「荒瘠(こうせき)」は、荒れて痩せた土地。「薄氷」は「うすらい」と読み春の季語。荒れた土地に降り立った鷺が、薄く張った氷を不思議そうに眺めている姿である。もとより鷺が実際に薄氷をいぶかしんでいるはずもなく、そう見たところに、作者の現在の状況を受け止める心境が投影されているのである。

面影のいつか鎮まるどんどの火        市川 唯子

 想っても想い足りない面影がある。その気持ちが、どんどの火を見ているうちに、いつしか鎮まっていたというのである。「面影」は、俳句では「俤」と書く人が多いが、この句では「面影」の若さを残した。

星ひとつ霜夜の指を抜けてゆく       木之下みゆき

 夜空の下でふと掌を見ていてそう感じたということである。そこには何かを失った感覚が「霜夜」が効いているが、「ひとつ」に技巧が見えるのが惜しい。

シネマとは記憶の個室雪降れり        表  ひろ

 映画は現在見ているのであり、周囲には大勢の人もいる。にもかかわらず映画を見ている人は、心の個室を作り、自分の過去をたぐり寄せている。それは夢の世界に近い状況と言えよう。映画と言わず「シネマ」と言ったレトロさが効いている。「記憶の個室」はみごとに映画の本質を言い得た。このくらいの発見があれば大上段に「シネマとは」と切り出されても、何とか納得できる。

抱かれて枯木の中の予備車輌         篠原  元

 いざというときのために待機している予備車両。その存在に作者の暖かい眼差しが注がれている。たしか作者は、その昔、大陸で鉄道関係の仕事に従事されていたと伺った。そういう経歴からの「予備車両」の一語が重い。

含み哭きして白鳥の闇うごく         鈴木 郁子

 夕暮れであろう。低くくぐもった声を発しながら、白鳥がゆっくりと水面を移動していく。「闇」に存在のすごみがある。最後の「うごく」まで無駄がない。

19年2月

銃眼の西より崩る海の冷え          山崎 政江

 敵を射るために空けた銃眼が西側から崩れ始めた。そこに面した海はすでに冷え冷えと冬の気配。嘱目の景として表層を読んだだけでも味わい深い。それはこの句に余計な因果関係が記されていないからである。俳句では「壁が崩れたから海が冷えた」などと関係を明示しない方がよい。もちろん読みを深めれば、日本の西には大陸があるということになる。

煮凝やたまゆらに合う箸の先         秋元大吉郎

 細部にこだわった繊細な句である。「煮凝」という柔らかなものを挟み、ほんの一瞬だけ箸の先と先とが触れあった。その一瞬を見逃さず俳句に仕立てられるのは、常に作者が俳句とともに生きているから。作者は、常にこのレベルの繊細さで、人と人との関係をも見つめているのであろう。

狐火の大きい記憶父の船           平垣恵美子

 思い出である。それも作者にとってこのうえなく重要な思い出。何かあるたびに思い出す「父の船」。作者の内面を形成する原点となるような原体験がそこにはあるのだろう。「狐火の」は「狐火を見るたび」とも解せるが「狐火のように不確かだが鮮やかに」とも読める。「大きい」が斬新。

慟哭の末の雪なり杉襖            荒木 洋子

 訃報であろうか。辺りもはばからず泣いてしまったのだが、やがてやや心が落ちついたころ雪が降り出した。眼前に立ち並んだ杉林が閉ざされた空間を作っている。あるいは、この
雪は誰かの慟哭の末の雪であろう、という読みも成立する。

普請場のシートを赤く冬翳る         稲垣 恵子

 工事現場にかぶせられた赤いシートにうっすらと弱々しい冬日が当たっている。人間が赤いシートを選んだのだが、冬日がそれを赤くしようとしているようでもある、弱々しく翳っていく「冬」という存在の微妙な生命力が詠われている。

湯気たてて忌日の父を招んでおり       福田 柾子

 「湯気たて」という季語は、部屋の湿度を保つために、火鉢などに湯をたぎらせておくこと。父の忌日に湯気たてをしている。それが昔の暮らしぶりを思い起こさせるもので、父の魂を招くのにふさわしいものと感じているのである。

北へ向く列車冬菜は透明に          水谷 田鶴

 「列車」と「冬菜」の位置関係にはさまざまな解釈が可能。私は列車に冬菜とともに乗っていると読みたい。「冬菜」が透明になるのは、その存在にふさわしい土地に戻るから。

朝すでに数え日の風醗酵す          加倉井允子

 一年を経て、「風」も「発酵」と呼ぶにふさわしいほどの熟成を得た。その風は、若々しくはなかったが、経験を重ねた好ましい存在になっていたのである。

朴落葉うらがえりたる夢のあと        高木きみ子

 大きな朴の葉が地に落ちて裏返っている。作者はそこに葉の一生を見る。それは若き日の夢とは大分違った一生だったのではないか、と作者は思ったのである。知的な諧謔の味を持ちながら、芭蕉の句も踏まえて情感も確かな一句。

大学の昼はどんより冬ごもり        ひねのひかる

 「どんより」に現在の日本の大学の有り様が感じ取れる。

着ぶくれのかけ声かけて踏む一歩       倉岡 けい

 実感。「着ぶくれ」が効いている。

鎌一丁冬将軍に仕えたり           香取 哲郎

 「仕えたり」の機知がみごと。実感でもあろう。

裸木に打ち明けてより鳥になる        岡田 治子

 「打ち明けて」が出色。そうだったのかと納得させられる。

待っているだけ心まで着ぶくれて       柴田 澄子

 横着になったという自戒。自虐の面白さもあるが暖かさも。

駅の灯が背中に届き暦売           斉藤 良夫

 「背中に届き」という写生がみごと。姿がよく見える。

大根の千切り死者に音増やす            山本 富枝

 正月の鱠か、仏間近くの厨仕事。深い情愛がある。

くま笹の白い旋律冬の雨           後藤 保子

 葉の白い縁取りが雨に打たれ、音を立てて揺れている景。

大寒や泪を見せぬ孤高の木          志賀 綾乃

 「泪を見せぬ」

冬桜もっと遠くへ行く切符          市川 唯子

 「冬桜」という存在が自分の想像力を拡大させてくれる。

放射状に帰る家族ら冬夕焼          瀬尾 教子

 距離を遠ざける現代の家族像。それでも「冬夕焼」の愛。

長き夜や静かに狂う置時計          上野かづ子

 「静かに狂う」はみごと。存在の不気味さに至った。

昨年今年竹一本で生きている    三上  啓

 竹は一本で生きているのだが、自分も竹一本で生きている

19年1月

全身を入れる鏡に眠る山          秋元大吉郎

 全身を写す大鏡。背景に冬の山が睡っている。さりげない詠みぶりだが、「入れる」一語で俳句にしている。「写す」と言うと普通の言い方なので読者は意味しか考えない。「入れる」というのは特別な言い方なので、読者の頭は、登場人物の動きをイメージとして再現しようと懸命に働き出す。そこが重要。読者の思考を喚起しないような表現は俳句ではない。

塔古りて杉の奥処という寒さ        山崎 政江

 東北吟行の折の句。通常の文章なら「杉山の奥に、古びた塔が、寒さの中に建っていた」と言うところ。それを刻み直してこう言い換えることで、読者の感覚と思考が働き始める。普通の語順ではないので、読者の頭が働き出す。さらにその語順が、「塔」の置かれた尋常ならざる状況を伝えてくる。

面影や十一月の水の上            香取 哲郎

 表現技巧に頼らず、一語一語の力で詠み切った句。水に映っているのは自分の顔であろう。そこに同時に見えるのは誰の面影か。「十一月」の冷たさが、「面影」の甘さを排除し、深さを作りだしている。

旅終えて胸に葡萄がたわわなり        山本 富枝

 「胸に葡萄がたわわ」という言い方が、技巧でありながら、実感として伝わってくるのがよい。また「旅終えて」というような詠み出しは通常だと説明的になるものだが、この句の場合は「終えて」が重要な役割を負っている。

削らるる記憶の底へ時雨虹         篠原   元

 「削らるる記憶」は実感であろう。来し方を振り返るとき、欠落している部分が増えているのである。しかし作者はそれを否定せず、そこに美を見いだす。冷たいけれど美しい時雨の虹。心象の季語である。「底に」でなく「底へ」であることも読者の思考を増やしている。

援軍は銀の芒ぞ衣川            木之下みゆき

 なるほど風に靡く「銀の芒」は援軍であろう。それは弱さと強さとを併せ持つイメージである。衣川に散ったもののふのあわれさと美しさを見事に伝える句となった。

密書一枚なたぎり峠冷えてくる       荒木 洋子

 芭蕉は堺田の封人の家に二泊し、尾花沢へ向かう。その途中にあるのが、山刀伐峠(なたぎりとうげ)。山賊も出るという深山である。「密書一枚」という語で、その地の物語を語りきっている。

もう時間が無い轟々と秋瀑         山崎 文子

 もうすぐ凍るはずの滝であるが、大音響で落下し続けている。残された時間のことなど滝は知るよしもないのだが、作者は、だからこその轟音ととらえたのである

長き夜のひかりを足している鏡        金子  敏

 鏡が部屋の灯を映しているのを改めて意識したのであろう。作者はそうした鏡に、いじらしささえ感じているようである

18年12月

翔ぶ物のひたすら透ける秋の暮        岡田 治子

 渡り鳥か、あるいは留鳥か、夕暮れの秋空を飛翔するものの影が暮れなずむ空の色に同化し、透けていくように感じられた。作者は、その鳥が、ただただ透明な存在となるために翔んでいるように思えたのである。おそらくそれは作者の心象があこがれる存在の有り方であったに違いない。

夜長にも結末があり丸い皿          荒木 洋子

 果物か菓子かを盛った丸い皿を真ん中に置いて、いささか難しい話題で家族の話し合いが行われている。いろいろな意見が噴出して、いっこうに話しがまとまらない。今夜は結論が出ないだろうと思っていると、誰かの機転の効いた意見が出て、とりあえず皆納得することとなった。気がつくと、皿に盛られたものはすべて食べ尽くされていて、ただ丸い皿が残っているだけなのであった。 

磁石いま大樹を指せり鵙の贅         山崎 政江

 北を指す磁針の先に、大樹が聳えている。その状態を作者は、磁針はいま大樹を指していると捉えたのである。「鵙の贅」は「百舌の速贄」のことで、これはもともと、モズが神に捧げる初物の供物という意味であるが、今では、忘れられた蓄えという意味が強い。この句はそうした寓意はあまり感じさせないが、過去のことよりも、今発見した「大樹」という存在に向かって生きていこうとする意志は感じ取れる。

満月のさざなみ果てし甕の水         秋元大吉郎

 満月を映していた甕の水にあったさざなみがふと鎮まった。今はただ少しも動かぬ甕の水に満月が映っている、ということであるが、「満月の」で一呼吸置いて読んでみると、少し意味が違ってくる。満月が登ってきて、さざなみが果てたという順序になってくるのである。満月の存在感を感じるには、そう読んだ方が良いように思う。小さな甕の中の世界の出来事であるが、それが宇宙の摂理のように響いてくる。

死すときは山河の消ゆる花芒         香取 哲郎

 死ねば山河も消えてしまう。死ぬということは、山河を認識できなくなるということである。当たり前のことを言っているようだが、作者は、山河こそが重要だという認識を表明しているのである。花芒はやがて枯れ芒とはなるが、今は命の光彩をまとった存在として描かれている。

毒舌は今も健在唐辛子            山本 富枝

 言っていることはどうということもないのだが、季語の「唐辛子」が絶妙。ただ辛いということだけでなく、「毒舌」の「舌」と深く響き合うのである。

触れ合って芒の鼓動迷走す          小林 俊子

 自分と芒とが触れあったとも読めるが、まずは芒どうしのこととして読みたい。風に揺れて触れあっている芒に鼓動が生まれるという感覚は、若き日の恋の記憶であろう。だとすると「迷走す」は実におもしろい。

地肌むき出し十三夜様来るか         金子 敏

 断崖であろうか。草木が剥がれ、地肌がむき出しになっている、こんな荒涼としたところにも後の月はちゃんと顔を見せてくれるだろうかということ。その素朴な発想が、「様」で生きている。

はずされて滑車鎮まる星月夜         表  ひろ

 材木の運搬であろうか。昼の間中酷使され、猛り続けていた滑車が、今はロープから外されて鎮まっている。「鎮」の文字が効いている。「静」では深さが生まれない。

檸檬かじる涙はいつもあたらしく        関根薫子

 また泣いてしまった、などと思う。そして、「また」ではない、と気付く。この涙は前のものとは違う。感情は繰り返されるのではなく、一回ごとに新しく生まれるものだ。檸檬の生鮮な味覚が、その認識を呼び覚ます。

人差指が覚えていたり赤とんぼ        斉藤 良夫

 トンボをとらえようとするなどは、何十年ぶりのことだろう。いつの間にかトンボの眼の前で人差し指を回している。そうだ、こうするのだったと頭が後から気付く。

絶望の重さでカンナ痩せてゆく        加倉井允子

 カンナの花が昨日よりやつれたように見える。もし絶望に重さというものがあるなら、そのせいでやつれていくのだろう。そう思うのは自分の感情のせいなのだが。

花薄とは暮れせまる切通し          福田 柾子

 夜の闇が迫る切り通しに、花薄が優雅にそよいでいるとは。「暮せまる」「切り通し」という緊迫感を持った言葉と、花芒という柔らかな存在との対比である。

水を這う尾のある汽笛月夜茸   福島由紀恵

 長く引いて鳴る汽笛を「尾のある」と言ったのは見事。

18年11月

紙魚走る背信の書をひもとけば       木之下みゆき
 
 「背信」とは、信義にそむき、あるいは信頼をうらぎること。「書」は書物であろうが書簡とも。教義に反したことを記したか、あるいは書いてはならぬ人の秘密を明かした書なに出会ったのである。「紙魚走る」とあるから古書であろうが、これは作者の心情の表象にもなっている。心の中を走り抜けるものがあったのである。

空蝉のあれは誰かを待つ背中         山崎 政江 
 
 人の「背中」はさまざまを語っている。「空蝉」の背もまた。対象を見て吐露される心情は、自ずと書き手の内部に潜伏する感情でもある。

稲の穂をしごくに熱き掌           秋元大吉郎

 生活の行為の中での実感である。しかし、この「熱き」が心情の現れでもあることは言うまでもない。内面に「熱き」ものがないところから、こうした表現は生まれ得ない。

銀河とは夢を見ている古墳だろう       表  ひろ 

 「銀河」と「古墳」という異物の衝突はシュール・レアリズムの手法だが、「夢」という言葉を介在させたために衝撃力が弱まり、かなり分かり易くなった。古代の歴史を抱え込んだ古墳のロマンを「銀河」でイメージさせているのである。

メトロ出て地に鬱然と月の声         平垣恵美子

 地下鉄を出ると月が掛かっていた。耳に地下鉄の音がまだ響いていて、それが月が発した声であるように思われた。重たい気分でいることがよく伝わってくる。

黄花コスモス八方へ空投げ上げて       杉山真佐子

 キバナコスモスは菊科でコスモスの仲間だが、その風情はコスモスとはずいぶん違う。群生するのは同じだが、軸が強くあまり風にそよがない。方向もまちまちで、それぞれが勝手に立っている感じである。「八方へ」にその実感がある。

波頭果てて晩夏の蘭学書           小柳 俊次 
 
 「蘭学者」は唐突に見えるが、旅行吟と考えれば納得できよう。「波頭果てて」と「晩夏」が「蘭学者」の生き様や運命を見せていておもしろい。

悲しめば眼が碧くなる唐辛子         稲垣 恵子

 潤んだ目に青唐辛子の色が鮮やかさを増したということであろう。それを「眼が碧くなる」と表現したのは、一見感覚的なことのように思えるが、その裏に自分を見つめる知性の視線がある。上質の滑稽である。

気象図を指して台風ゆかせたる        新居ツヤ子

 テレビの気象予報官が、指示棒で台風の進路をなぞりながら「台風は通過しました」と言ったのである。それを「ゆかせた」というのが滑稽の見立て。俳句ならではの世界である。

秋気澄む森が歩いてくる気配         鈴木 郁子

 「気配」とまで言っているので、何の補足も要らない。読んだままのことであるが、「森が歩いてくる」という思い切った措辞に実感があるのは、「秋気澄む」との取り合わせに妙があるからであろう。

もう逢えぬ距りは花野にも似て        山崎 文子

 親しくしていた人との最後の出会い。事情があって、もう逢うわけにはいかない。はかなくも美しい付き合いであった。「花野」には浄土のイメージもあるから、そこまで鑑賞の幅を広げることもできる。

運と言う無色の隙間秋の風          山本 富枝 

 「運」などという俗語を叙情に組み込むのは難しい。しかし俳諧の初めは和歌に俗語を取り入れることから始まった。現代の俗語をどう韻文に取り込むかを考えるのは、俳人の義務である。掲句は「無色の隙間」という詩的な表現によって、みごとに「運」という言葉の俗っぽさを受け止め、詩に昇華させて、そこに深い思想性まで生み出している。「運」とは何かとあらためて考える気にさせる句である。

法師蝉傷心の胸空にあり           大野 あい 

 最後の「空にあり」がすばらしい。この一語によって作者と「空」は一体化した。主体と対象、見るものと見られるものが一致する。そこに俳句的な世界が生まれる。

死後のこと青大将に任せたり         香取 哲郎

 青大将は家の主。鼠を捕るなどは朝飯前で、その家を富ませるのも通常のこと。したがって、その後のことを任せるのは当然なのだが、この時代にそこまで断言するのは何らかの悟りがあってのことだろう。次の世代への期待と不安。それらを振り払っての断言。

口髭を動かしている黒葡萄          野口 京子

 髭を生やした男がもぐもぐと口を動かしている。男の口を動かしているのは「黒葡萄」であったというわけ。しかし、この句はそれで終わらない。「黒葡萄」のイメージは男の存在感に重なり、さらに「黒葡萄」という存在は、口髭を生やした男のようでもある。そこがおもしろい。

後退りする胸もあり二学期よ         市川 唯子 

 二学期が始まったのだから「後退りする」よりは前向きであった方がよい。しかし、現実には前向きになれぬ精神も存在する。だが、そこで「前向きでなければ駄目だ」と言ってしまったら、その子どもは駄目なことになってしまい、可能性の芽までむしり取ってしまう。「~の方がよい」のと「~でなければ駄目だ」というのはまったく違うことなのだが、それを分からぬ親は多い。作者はそこを分かった人である。

コスモスに触れて記憶の地平線        竹内 静子

 コスモスに触れたとたんに、ある時代の思い出が丸ごと甦り、その時代の記憶が頭の中に広がったのである。それを「記憶の地平線」とはよく言ったものである。

産声は銀河の涯を旅してきた         三上  啓

 生命は太古から連綿と連なっている。突然発生する個体はない。時空を経由して生まれてきた生命への賛歌である。

滑莧戦後は空を見ていない          日高 秋龍
 
 まだ戦争を知らなかった若い時代への思い。そして、知ってしまった後の大人としての暮らし。「滑莧」は雑草で地面を這うように広がる。食用にもなるらしい。

片足は雲に乗せたい男郎花                   山田美枝子

 豪快に生きたい気持ちが詠われている。花を詠んでいるようでもあり、また男性の生き方を言っているようでもあるが、その気持ちは作者のものでもある。

18年10月

プールあがり鱗が月の色となる        秋元大吉郎

 夜のプールを出て月光に身を曝す。と、身体がいつもの自分とは違っていることに気付く。
心象の風景であろうが、想い出でもあるのだろう。ただの幻想と片づけるわけにはいかない
実感がある。月光の力であろうか、それとも太古への記憶であろうか。

鬼灯に泣かれて遠くなる対岸         山崎 政江

 実を破裂させてしまったというのは現実的過ぎる解釈だろうか。泣いている人物がそばにいるようでもある。「対岸」はどこかに行こうとする願望。今の地点から離れられずに途方に暮れている人の姿が見えてくる。

大西日海の広さの怖しき            河口 俊江

 作者が怖れるのは「広さ」。仕切りもなく道もない。あるのは無限の自由。自由への願望を心の奥底に秘めながら、しかし自ら組み上げてきた生き方の筋道から離れられないのが人間。「大西日」が語るものは有限。やがて来る終末である。

うたがきの山と交信いなびかり         香取 哲郎

 佐原に住む作者が「うたがきの山」と言えば筑波山。古代の男女が互いに歌を詠みかわし、踊ったのが歌垣。まさに男女の「交信」である。今日は、その山と「いなびかり」が交信しているのだという。神話に通じるスケールの句。筑波を「うたがきの山」と言った作者のセンスが光る。なお、日本三大歌垣と言われるのは、筑波山と杵島山(熊本)、歌垣山(大阪府)である。

雨上がる木々の呼吸のような虹        高野 義康

 「ような」という直喩は、すぐ似ていることが分かるものに使ってはつまらない。常識では似ていないものを繊細な感覚でつないだとき、はじめて「ように」が力を発揮する。「呼吸」という語につながれて、「虹」が鼓動し始める。

夜濯ぎのあくまで己との対話          岡田 治子

 一日を思えば、喜び、悲しみ、怒り、慙愧、寂寥とさまざまの感情がわき起こる。それをどう受け止め、明日につなげるか。人の人格が形成されるのは、その時である。内面を作りだすものは「己との対話」。それが希薄な人に、内実のある句は作れない。

立秋の白髪にもどる歌唱力           稲垣 恵子

 自分のことであろうか。秋の気を受けて、「歌唱力」が戻ったと言う。すてきなことである。
「歌唱力」は生命力である。「白髪に」というひと言で、状況を語り尽くしているのも見事。読んでうれしくなる一句である。

生きている限りは戦後魂送る         文挟 綾子


 
戦後を共に生き抜いた人との別れがあっての句。たとえ、戦後は終わったなどと言われても、終わるわけのないものもあるのである。心に残る句である。

木苺やもののけの音失せており       小林 俊子


 
さっきまで感じていた森の邪気が、目の前に現れた木苺によって鎮められてしまった。木苺は、それほど清純な存在だったのである。

文庫本落して神さまと昼寝          市川 唯子


 居眠りをした人が読んでいた本を落とした。それが純粋な姿に見えたのである。ヒューマニズム溢れるウイットである。

八月六日片袖は水の中            山崎 文子

 
長崎忌の句。「片袖は水の中」という描写が、すべてを語っている。状況に対する作者の深い洞察を感じる。

曼珠沙華錯乱しても火の匂い        加倉井 允子


 
「火の匂い」は「曼珠沙華」のことであろうが、何かそうした人物像が思い描けて面白い。

夏氷まひるまの時噛みくだく        ひねのひかる

 
氷の塊をかみ砕いた。そのときの衝撃が、時間をかみ砕いたようだというのである。氷塊が炎昼を破壊するのである。

暗がりに囁く呪文灸花             岡田 哲夫


 
「灸花」という存在を実にうまくとらえている。「囁く」という措辞が実に深く面白い。そういう人間の存在も暗示している。作者は大正十一年の生まれ。

もめごとの花火が開く沼の淵         小柳 俊次


 
「もめごと」の末に開いた花火大会。あるいは、花火が引き起こす「もめごと」。作者は「花火」の裏を見ている。

 
18年9月

くらがりの息呑んでいる梅雨の月       杉山真佐子


 息を呑んでいるのは「くらがり」。群雲から姿を現した「月」の容姿を、地上の「くらがり」が息を止めて見つめている。美しさゆえであろうか、それとも己を消去される怖れからであろうか。

蝉の穴ところどころに人翳る         山崎 政江


 人間が蝉の穴の中にいるわけではない。地表に何人かの人が立っていて、そこに作者は翳りを見ているのである。現代的な存在の不安感がある。キリコなどに描かせてみたい情景である。

欺きは神話のはじめ蒲の花          加倉井允子


 古事記などの因幡の白兎の話がモチーフなのであろう。しかしこの「欺き」は現実に起きた何かであろう。現実に生じた「欺き」という行為に、それはくよくよするような小さな問題ではなく、人間の本性に根ざした大きなことでそこから何かが始まるのだと言っているのである。

白昼の雫になっている老鶯          岡田 治子

 この作者らしい直観的なとらえである。この「雫」はもちろん声。老鶯の一声を、炎昼の一滴ととらえたのである。

香水をためらう星と遊ぶ夜は         秋元大吉郎


 満天の自然の美に対するのに、人工の香は避けたいということであるが、作者が男性であることを思うと、もう一つ考えなければならないかも知れない。香水を、「香水を付けた女性」と読むこともできるのである。

素に戻るらし仰向けに虹倒れ         表  ひろ


 高柳重信の「身をそらす虹の/絶巓//処刑台」を下に敷いた句であろうが、「素に戻るらし」はなかなか笑える。シュールレアリズムとは違う俳諧の伝統を引いた滑稽と不可思議の世界である。
        
18年8月

風向も翳りあるなり五月の樹         山本 富枝

 「風向も翳りある」という措辞の何と意味深いことか。風にそよぐ緑の木々が作りだす「翳り」に、それと言わず明日への不安を託している。「五月の樹」という存在の明るさに救われるが、その樹にこそ「翳り」があるというのである。

榛の木に雷鳴だれも毀れない          山崎 政江


 「榛の木に雷鳴」で切れる。よほどのことが起きても「だれも毀れない」日常のしたたかさ。だがそこには作者のある不満が囲い込まれている。むしろ毀れるべき状況ではないのか。こんなときに毀れないのは鈍いだけなのではないか、と。

じゃんけんのぐうはいよいよ薔薇浄土     文挟 綾子

 一面に咲き誇る薔薇園のまっただ中でのじゃんけん。突きだした「ぐう」に昂揚する気持ち。そこに、幸せと終末への予感がいっぺんに押し寄せてくる。意味以上に言葉自体の面白さがある。

絮噴いて雲へ忘我のポプラの木      木之下みゆき


 ポプラの「絮」はすさまじい。周囲の雨樋や換気口を皆つまらせてしまう。だから「噴いて」に実感がある。「雲」との取り合わせも自然。

金網に耳が集まる電波の日              篠原 元


 「耳が集まる」で、人間が本来的に知りたがる生きものだということを言っている。取り合わせであるが景も見えて、嘱目と思わせる。巧い句である。沖縄の基地のことまで想像させる。「電波の日」は6月一日。

菖蒲田の系譜貧血していたり          表 ひろ


 実際に菖蒲を見ていて貧血を起こしたのであろう。それを菖蒲の末裔だからと言っている。菖蒲は花菖蒲と違い、サトイモ科で花は地味。しかし「菖蒲田」というと堀切菖蒲園にしても明治神宮にしても、みな花菖蒲のことである。

花栗の歓喜少年のぼうけん          秋元大吉郎

 満開の栗の花には、少年の日の思い出が詰まっている。人間の生命力の原点を詠っている。

緑陰を出て火のような五重の塔         山崎文子


 炎暑を言っているのであるが、「火のような」は五重塔の存在感でもある。静かに佇む塔であるが、そこに秘められた情熱を作者は感じとったのである。

失いし日々を刻めりほたるの火        高木きみ子


 「失いし日々」は寂しげであるが、しかし作者は「ほたるの火」の点滅に、数々の思い出を確かめることができたのである。

甚平や漂うごとく世を生きて         香取 哲郎


 まめまめしく生きてきたのである。だが、齢を重ねて鷹揚に暮らすようになった。いや、懐古すれば、ずっとこうして生きてきたような気もする。炎暑中の茫洋とした心持ちでの感慨である。

18年7月

青葉回廊鎖の音がしてならぬ         山崎 政江

 仏閣の回廊であろう。さわやかな青葉に包まれ、趣のある回廊を巡っていると、どこからか鎖の音が聞こえてくる。その音が気になってしかたがないというのである。「鎖」には両義性がある。一方で、堅固な繋がりを意味するが、他方では束縛や拘束のイメージを伝える。「してならぬ」という表現は、あるべきでないことが起こりそうで不安だということであろうから、この「鎖」は束縛の鎖であろう。どこからか拘束の音が近づいてくる。時代なのであろうか。

麦秋の胸の深みに刺さる禾          秋元大吉郎


 思い出であろうか。麦秋の季節になると思い出す痛みがあるというのであろう。機械を使わぬ昔の刈り入れでは、実際に禾に刺され、目などを痛める人も多かった。そのことと、心の痛みの思い出が重なるのであろう。

考えの曲がった樹よりほととぎす       和井田なを

 ひどく幹や枝の曲がった木に出会ったのであろう。いや、その木に出会う前に、自分と考えの合わない人と出会っていたのかもしれない。そのとき、その木からほととぎすの声が
響いた。ああ、何であっても、自分の知らぬ何かを隠し持っていることがあるのだなあと思ったのである。

掃除機にはるばる来たる黄砂かな      稲垣 恵子


 生活の中の発見が大きな感慨を生み出している。日常の何気ない一コマ一コマも深い意味を持っている。それに気づくかどうかということである。

ポケットに狂気と正気汗ばめり        市川 唯子


 誰かと向かい合って感情の起伏を押さえ、鬱屈しているのである。外に出せない情念が、ポケットの中で汗となる。

哲学は太古に茂る鬚であろう         表  ひろ

 人類の考えるという行為は太古に発生したといっているのだが、それが「鬚」という具象によってユーモアとイメージを与えられ、印象深い表現となった。また「茂る」が太古の森林さえも想起させて効果を上げている。ジェンダー批評の視点から言えば、やはり哲学は男のものだということか。

枝垂れたるものも光源聖五月         鈴木 郁子


 柳であろうか。「枝垂れ」という下降のイメージを、「光源」という高揚のイメージに転化し、そこに強い生命力を認めている。「聖五月」も生命力に満ちた季語である。

漂泊の杖を立てたる牡丹園          香取 哲郎


 そちこちを移住して暮らしてきた人が、年を経て永住を決め、居を構えたのであろう。その人が牡丹園を訪ねてきた姿である。「立てたる」がさまざまな意味を生み出している。その生き方に対する言祝ぎの句でもあるのだろう。

盆栽に小さな木蔭夏はじめ          斉藤 良夫


 たしかに盆栽にも木蔭はあるだろうが、それをあらためて「木蔭」と詠んだ人は少なかろう。実に俳句らしい表現方法である。

行く春の自分が見えて立ち止まる      山本 富枝

 ふと、自分の実像に気づいてしまった、ということである。何の具象も示さず、感慨をつぶやいただけの句であるが、「行く春」が深い思いを伝えている。

忘却という非常口夜の新樹          大川 俊江

 忘れることが救いとなることもある。それを「非常口」と言い表した。ただ新奇な表現というだけでなく、そこにはユーモアとともに、かなりの切迫感がある。この場合「夜の新樹」は不思議な季語であるが、「新樹」として生きているという思いがあるのだろうか。

郭公にふりまわされている鉄塔        三上  啓


 「鉄塔」の句は数多作られていて、もうどうやっても月並にしかならない気もしていたが、これは新鮮な句である。新しいだけでなく、実感もある。

鳥帰る無限の空の自動ドア          篠田 道子

 なるほど、空にもそういうものがあったかとだまされたくなる。ある時期が来ると自然に開くドアがあって、それで鳥も帰っていくのかと。

密約を風に盗らるる蛇いちご         増田 元子


 「蛇いちご」どうしが、「密約」を囁き合っていた。そこに吹いてきた一陣の風が、その会話を盗み取っていった。

青春に二十五時あり松の芯          戸辺 俊羊


 若い頃は夜更かしをしていたというところからの発想であろうが、句は、今も青春の延長だとまで言っている。「松の芯」は、現在の自分のことも重ねている。

信長の首の瞑想落椿              堺  房男


 「首」が効いている。たしかに瞑想するのは首であろう。「落椿」はやや付き過ぎの感もあるが、印象は強烈。

秒針のときには狂う青時雨           椿  良松


 几帳面に生きてきた。だが、それでも生活のリズムに狂いを生じさせてしまうことがある。いや、それでいいのだ。この深緑に驟雨が過ぎていくように。

初がつお今を感じる耳の奥           戸邉ますみ


 食べ物ごときとは思うが、しかし美食の快楽は人間にとってかなり深い価値である。そのことによって、自分が生きているという実感をつかみ取れるのである。

胃カメラに立夏の息を呑み込みぬ       野本 ちよ


 胃カメラを実際に飲まされたときの実感であろうが、それが「立夏」という特別の日の出来事だったことを意識したことにより、一期一会の生命力のきらめきが生まれた。

ほころびを気にせず泳ぐ鯉のぼり       高橋  徹


 何年も使われた古い鯉のぼりが、堂々と空に泳いでいたのである。こういう句は作り手の人間性が反映するように思う。

延命は無用と告げん山法師          米山恵里子


 自己の生き方への確固たる宣 である。「山法師」という素朴で力みのない季語が佳い。

日常が桜の道へなだれ込む          小倉 政子


 花見は、人間にとってはリフレッシュであるが、桜から見れば、俗臭を匂わせた人間が押し寄せて来たことになる

18年6月

ポケットの思わぬ深さ万愚節          安田政子

 「万愚節」というと、すぐ嘘だとか本当だとかを詠んでし まうが、この句は、もう一歩人の心の本性に踏み込んでいる。 予想以上の結果に慌てているのである。このポケットが、他 人のものだと考えるとさらに面白い。いたずら心でごく親し い男性のポケットに手を入れたのだが、予想以上に深く入っ てしまって少し慌ててしまう。むろんこれは相手の懐の深さ も言っている。要するに大人の会話である。

勲章という死のありて花大根         和井田なを

 叙勲を受けた方が亡くなったのであろう。そのことが葬儀 の席で強調されたのかもしれない。だが、作者は考える。死 は死だ。叙勲によって、死の重さが増すわけではない。いや、 叙勲の重さを否定しているわけではないのだ。ただそれより、 その人の、人としての死を考えてみたいのだ、と。そうした 作者の感覚を、「花大根」がすべて語っている。最後に「菊の花」と付ける人とはまったく違ったレベルで作者は生きているのである。

風のオルガン春はひとりのテロリスト      山崎政江

 春風はやさしいが、しかし作者は孤高を保とうとする。「オルガン」と「テロリスト」という二つの言葉の衝突は激しく深い。「オルガン」という言葉は「テロリスト」の人間性を 引きだし、「テロリスト」という言葉は、「オルガン」の存在 価値を鮮明にする。荒涼とした戦闘地帯には、確かにオルガ ンが必要なのである。ロマン・ポランスキー監督の映画「戦場のピアニスト」を思い起こした。

花吹雪男の語尾の充血す            山崎文子

 気合いの入った男性の発言を聞いたのであろうが、「語尾 が充血す」とはよく言ったものである。「花吹雪」が、その 男気を称えている。俳句というものの面白さを十分に伝えて いる句である。

月昇る我慢のさくら散るさくら        秋元大吉郎

 「我慢のさくら散るさくら」という発想は他にあるかもし れないが、「月昇る」が面白い。ライバルの出現であろうか。いや、月も桜を称えているのである。西行法師も満月の花の夜に死にたいと詠っている。

たんぽぽの素性は聞かず村の過疎        山本富枝

 西洋タンポポと日本タンポポがあることを踏まえての句で ある。ともかくも人を増やさないと、と作者は思っているのである。最後を「過疎の村」とすると、村人がタンポポの素性を聞かなかったことになり、意味が変わる。

パレードへ指先細る春の夜気         杉山真佐子

 ディズニーランドであろう。春の夜の冷えを、「冷」とも 「寒」ともいわずにみごとに表現している。

牡丹の飲み干すように水を欲る         岡田治子

 俳句では「ように」という直喩は表現を弱くしてしまうこ とが多い。直喩を使うのは、この句のように、普通はそう思 えないことをやや強引に表現する場合である。この句は、「牡丹の水を飲み干す」と隠喩(擬人法)にすると、かえって平 凡になってしまう。「飲み干す」と「水を欲る」を無理を承 知で「ように」で結んだところに、この人にしか言えない表 現というものが作られている。

おぼろ夜の記憶を吊す衣紋掛         加倉井允子

 「おぼろ夜」がうまく状況を作りだしている。「記憶」は 抽象語で、俳句では危うい言葉だが、「吊す」と「衣紋掛」 の具象性がうまく俳句としてのまとまりを作りだしている。

スカートの襞が広がる花疲れ          大川俊江

 「花疲れ」という季語は、実感を重視し過ぎると、美や品 格が失われる。また、美しく読み過ぎると、リアリティがな くなる。この句の「スカートの襞が広がる」という具象は、実感と品位との調和をうまく作りだしている。

菜の花やおきなおうなの四分音符        野口達雄

 「四分音符」が実に巧い。複雑な旋律を唄っていないこと を一言で分からせている。

この星の今は何色桜咲く            戸辺俊羊

 「地球は青かった」という名言を踏まえ、桜で満開の今、 宇宙から見た地球は何色かと問うている。視点を変えてみる ことはとても重要である。また、さらに一歩踏み込むと、ま だ地球は青いか、という警鐘も聞こえてきそうだ。

新キャベツバリバリ今を生きている       浅田道子

 「バリバリ今を生きている」のはキャベツであるが、むろ んそこには自己の投影がある。いよいよこの作者も、自己表現のコツを掴んだようである。
平成18年5月

俄雪ニコライの鐘地底より         木之下みゆき

 急に天から雪が降り始める。ちょうどそのとき、ニコライ 教会堂の鐘が鳴り始め、地の底から湧き上がってくるような 音を響かせた。天から降る雪、力から湧き上がる鐘の音。人 間の力を越えたものの存在を感じとった瞬間である。i音の頭韻がアクセントを作っている。

目柳の音符すばやく盗まれる        山崎  文子

 柳の芽が音符の形に似ているということがモチーフであ る。その芽が、実際に歌っているようだったのかもしれない。 人間が見た時には、もうその旋律は盗まれていて、すでに聞 き取ることができない、そういう意味にも取れる。イメージ が限りなく広がる。
平成18年4月

ゆく先は別の雪国旅かばん           小島裕子


 雪降る国から、また別の雪国へと旅立たねばならぬ人がいる。その人が背負ういささかの哀愁を、「旅かばん」という名詞一つで描ききってしまった。実に俳句らしい手法といえるだろう。仮名で書かれた「かばん」が、「鞄」とはまったく異なる雰囲気を作りだしている。「鞄」では立派すぎるのである。

早梅や海の匂いのなんでも屋         和井田なを

 行商であろうか。あるいはうらぶれた店舗かもしれない。実際に海の匂いもしたのだろうが、その様子から、海辺の文化が感じ取れたのである。それは、懐かしさや人類の太古への思いでもあるのだろう。この句も、仮名で書かれた「なんでも屋」が正体の分からない感じをうまく出している。「早梅」という匂いの季語から「海の匂い」への転換も面白い。

くちびるに蝶触れており詩の目覚め      表  ひろ

 言っていることは平凡なことである、ただ、目で見たというのではなく、唇に触れたという生々しい触覚が、それによって引き起こされる「目覚め」というものに実感を与えている。この句もまた「くちびる」という仮名表記によって日常を超えた実在感を生み出している。

風に眼があり残月の猫柳            山崎政江

 実際は残月が眼のようであったのかもしれないが、そこを離れて「風に眼があり」と言い出したところに詩の深さを作りだす手法がある。この「眼」はもう残月を離れて「風」のものである。その不思議さの中にある不安や怖れ、あるいは見守るという愛などをさまざまに読者が感じ取れるように作られている。「猫柳」は「風」も「眼」に覗かれ、見守られて育っていくのである。

謀など野火の一つをふところに      鈴木郁子

 「謀(はかりごと)など」で切る。そんなこととんでもない、という気持ちが省略されている。「ふところに」とあるが、それは気持ちの問題である。人に疑われ、あるいは謀略を持ちかけられ、それによって反逆の炎を一つ抱え込んでしまったのである。

古巣より手毬の落つるくぬぎ山        秋元大吉郎

 ものを集めるのが好きな鴉の巣であろうか。くぬぎ山の古巣から手毬がこぼれ落ちてきた。「古巣」という季語もこのところあまり見かけなかったが、雛を孵し終わってうち捨てられた巣のことである。だから「手毬」が面白いのである。


平成18年3月

告白の断面があり初鏡            表  ひろ

 告白というと、愛か罪であろう。皆さんはそのどちらを先 に思っただろうか。両者はまったく異なる意味の言葉だが、 なぜか重なり合う部分も大きい。愛が罪であることは多く、 また罪を救うのは愛である。最近は「コクる」などという言葉もあるらしいが、これはあまりに軽々しくて、罪と結びつ くレベルにはない。キリスト教では、自分がキリスト者であ ることを公けにすることを告白という。これも神への愛を公 表するのである。「初鏡」というからには、そこに化粧する 自分がいる。「告白の断面」とは、その化粧の顔の実相を言 ったのであろう。そこに見えているのは、愛か、罪か、それ ともその両者が重なり合った状態か。

刻というものにはらわた涅槃西風      山崎 政江

 時間というもっとも抽象的なものに、なま暖かい「はらわ た」を感じとっている。それほど生々しい時間を生きている というのである。「涅槃西風」は涅槃会の前後に吹くやわら かい風であり、浄土からの迎えの風ともいわれる。その暖か さに、作者は抽象化された精神性ではなく、それとはまった く正反対の、なま暖かい「はらわた」を感じとる。涅槃、つ まりニルヴァーナは、煩悩を捨てて絶対的な静寂に達した境 地であるから、それは肉体を捨て去った真理の世界のはずで ある。そこからの風に「はらわた」があるというのは、仏陀 への挑戦状のようなものだが、作者は悟りを否定しているの ではない。ただ、そんなものがあることを知っていてもどう にもならないほどぶよぶよした現実があると言っているので ある。しかし最後の「涅槃西風」には、救済への願いも込め られているのであろう。

火の星の真下戦ぎぬ冬の竹          金子  敏

 「火の星」は、火の色をした星、すなわち火星。しかし火 星と特定するのと、「火の星」といったのではイメージが大 きく変わる。「火の星」はただの火星ではない。それは明ら かに燃えている。その下で冬の竹が揺れている。だが揺れる のと「戦ぐ」ではイメージが変わる。「そよぐ」は「揺れる」 より潔い。それを漢字で「戦ぐ」と書くと、またイメージが 変わる。「戦」の文字が、そこに何か強い抗いの心の存在を 感じさせる。「下」を「真下」といっているのも同様である。 火星の下で冬の竹が揺れているというただそれだけのことな のであるが、選ばれた言葉によって、作品のイメージが大き く膨らんでいる。

十二月八日空行く雲は帆に          岡田 治子

 太平洋戦争の開戦日。だからどうだとは言わず、ただその 日の雲の姿を詠んだ。「帆」という一言に、作者の思いは凝 縮されている。あとは読者の領域である。私は、戦後をひた むきに生き続けてきた人々を思う。そして、歴史という大き な時間が流れ続けていくことも。

初恋の青き山河の歌かるた          秋元大吉郎

 この「青き山河」は季語ではない。瑞々しい初恋の時代の イメージを伝える言葉である。確かに「青き山河」に生きて いたといえるそういう時代の「歌かるた」を想っているので ある。「歌かるた」の場が、明治以来、恋の芽生える場所で あったことはいうまでもない。

梟は石の声して星揺らす           平垣恵美子

 オカリナに似ている梟の声は、確かに「石の声」であると 納得させられる。逆に「石の声」と言われることで、その梟 の声が分かる気にさせられるということもある。「星揺らす」 はいささかロマンに流れたが、ひとつの虚構の世界を作り出 すことには成功している。

冬凪や遠い書店の魚図鑑           市川 唯子

 風の止まった渚に立って、海に泳ぐ魚を想う。そのとき、 昔書店で見た魚図鑑の鮮やかな色彩を思い出す。結局買うこ とはなかったが、あの図鑑は今も売られているのか。「遠い」 は地理的な遠さでもあろうが、時間的な隔絶感でもある。作 者は昔書店の仕事をしていたと聞く。

嚔して胸になだるる寒の星          倉岡 けい

 外に出て星を見ていたら、大きな嚔が出た。そのとき、今 まで見ていた星々が眼裏に散らばり、胸になだれ込んでいっ た。「寒の星」を体全体で受け止めた句である。

神様のことな忘れそ師走の手         稲垣 恵子

 歳末には些事が多い。雑事に追われて、肝心の「神様のこ と」を忘れるな、というのである。「神様のこと」というの は、神棚の掃除やら飾り付けやらである。「師走の手」の 「手」が実に俳句らしい言い方で、具象を作り出している。 が、その具象の裏に、この一年、神様に守られてきたことを 忘れるな、という抽象も実は言っている。


平成18年2月

亡きひとの芦刈っている耳の底        香取 哲郎

 亡くなったある人のことを思うと、枯れ始めた芦を刈るザ ッ、ザッという音が聞こえてくる、というのである。実直に 鎌を振るう姿が、その人の本質だったのだろう。人の思い出 が、特定の光景と強く結びつくことは多い。その光景は、そ の人にとって重要な光景というより、自分にとって深い意味 のある光景であることが多いのである。

胸の杭はずして眠る寒の月           山崎 政江

 「杭」は「支え」になるべきものであるが、一方でそれは「打ち込 まれたもの」であり、「抜き差し難いもの」でもある。つま り「杭」は、一面で頼りになる存在であるが、他方では重荷 にもなる存在なのである。そうしたものが心に打ち込まれて いるとしたら、それを「はずして眠る」のは当然の願望であ ろう。だが、その「杭」が、自分が何かに打ち込むためのも のであるとしたら、事態はさらに深刻である。「はずす」と いう言い方は、そう読ませる可能性を持っている。

初氷踏みしめられて日の微塵         秋元大吉郎

 「踏みしめる」という語は、決して悪い意味には使わない。 それは、一歩一歩に心を込め、丁寧に生きていくことを表す 言葉である。だが、「踏みしめられ」た方にしてみれば、い ささか困惑する場合もあるに違いない。作者が、そうした滑 稽を意図したかどうかは不明だが、踏みしめられ、微塵の光 となって散った「初氷」を思うと、心ある人に踏まれ、美し くは散ったものの、自分の人生はこうであったのかと、びっ くりしているような気がしておかしい。深く、上質の滑稽で あると思う。

海鼠断つ天辺に雲輝けば           金子  敏

 これは戻した乾燥ナマコではあるまい。生のナマコでなけ れば実感がない。とすれば、中華料理ではなく、作者は、日 本料理に挑戦していることになる。まず切ったとなれば「茶 振りナマコ」か。関東で主に食されるのは「マナマコ」の一 種の「アオナマコ」である。体長は二十センチを超え、背が 暗緑色、腹が黄や青で美しく、不気味な存在感がある。その 海鼠を一刀両断に斬ったのである。おそらく初めての経験だ ったのであろう。それは作者にとって、「雲輝けば」と言わ ざるをえないくらいの大きな出来事だったのである。となり に日本酒が並んでいることは言うまでもない。

生臭きナイフとフォーク聖誕祭       木之下みゆき

 人の心の暗部にあまり深入りしないこの作者にしては珍し い句だが、しかしこの人はときどきこうしたことをやる。 「生臭き」は、実際に匂ったのではない。「食べる」という 行為自体を考えてしまったのである。そう、人間は、食うこ とによって生きている。しかも肉を食う。何ということであ ろうか。聖なる人の祭りの夜に。


平成18年1月

山の端に切られ鋭き天の川          金子  敏

 銀河の端が山の稜線に切り取られて、斜めになっている。 それを、「鋭き天の川」と表現したのである。天の川に鋭さ を見た句には初めて出会った。韻律の中で「鋭き」という言 葉が浮き上がってくる響きが作られている。手法は手堅い写 生であるが、斬新な感性が表現されている。「山の端」は稜 線の空側のことで、稜線の山側が「山際」である。

呼ばれた錯覚狐火は沖にあり         山崎 政江

 「呼ばれた錯覚」までを一区切りに読み、沖の狐火を見て いたら、誰かに呼ばれた気がした、と解釈するのが一般的だ ろう。沖から呼ばれたように思って、沖を見たら、狐火があ ったというようにも解せる。いずれにせよ「錯覚」と自覚し た淋しさがある。

足裏の大きく見えて冬はじめ          秋元大吉郎

 初冬の句ではあるが、もう一年を懐古する気持が含まれて いるように思われる。「足裏」は自分の生活の象徴であろう。 それが大きく見えたというところに、充実した今年の軌跡を 振り返る気持が感じられる。

淋しさの獣になってゆく蒲団           市川 唯子

 「淋しさ」というものが獣的になってくるというのか、自 分が「淋しさの獣」というべきものになってくるのか。「の」 が意味を重層的にしているが、心身がまるごと理性から離れ て寂しいという原初的な感情に溺れていくというのである。 「蒲団」という季語がここまで生々しく使えるのだと改めて 教えられる。田山花袋の「蒲団」を思い出す。

絶叫の滝音木々を枯らしゆく        木之下みゆき

 冬滝という季語の本意は、水が涸れたり凍ったりして、水 量が減り、細くなった滝なのであるが、この滝は冬というの に「絶叫の滝音」を響かせている。その響きと、周囲の枯れ との対比を、このように表現したのである。

冬が来る千枚の田を大股に          香取 哲郎

 上五で切って、寒さの到来に大股で広い田を歩く作者が見 えてくる。だがこれは倒置法で、大股に冬が来る、と頭に返 って読むべき句であろう。冬将軍という言葉もあるから、冬 が大股に来るという感覚は充分理解できる。

情念の滝にくらくらななかまど        小島 裕子

 石川さゆりが歌う「天城越え」の世界を織り込んで、歌と 俳句とのぎりぎりの境目で遊んでいる。なるほど「浄蓮の滝」 は「情念の滝」であろうし、「何があってももういいの、く らくら 燃える火をくぐり」と歌われたその滝に「くらくら」 したというのであるから、まさに本歌取りの見本のような句 である。本歌取りのルールについては軸誌二月号に書いた。

冬瓜の重心決めかねる刃先          篠原  元

 大きな冬瓜のどこから切るかを、決めかねているのである。 ま二つにするには、いくつかの方法があるが、形ではなく、 重さの感じで等分しようというのである。いろいろに当てて いる刃先が見えてくる。

身の内の音となりたる桐一葉         高木きみ子

 落ちた桐一葉の音が、身の内の音となったというのである。 秋の気配を全身で受け止めている。主客同一の境地を、理屈 でなく、感覚で描いている。

能面の声なき笑い秋時雨            小野  登
 正統の写生が、いささかシュールな別世界を生み出してい る。そこが面白い。季語が動きやすい作りだが、この「秋時雨」は効いている。